プロのチンドンの全国大会、今年は6位
「でも、やるだけのことはやりました」。2026(令和8)年5月24日(日)に愛知県一宮市で開催された「全国選抜チンドンコンクール(プロの部)」を終え、そう振り返る宮田わかなさんの表情は、晴れやかだった。

2026年5月、愛知県で開催された「全国選抜チンドンコンクール(プロの部)」の一幕(宮田わかなさん提供)
宮田さんが座長として率いる「宮崎花ふぶき一座」の結果は、6位。
2019(令和元)年には、同コンクールで優勝した経験も持つ一座。昨年は準優勝だったこともあり、この結果はすんなりと受け止められるものではなかった。しかし、一方で、「今の自分に必要な結果だったのかもしれない」とも感じたという。
「もっと芸を磨かなきゃいけないなと思ったんです」
正面を見据えて、そう話す姿から感じられたのは、順位を落としたことに対する悔しさより、チンドンの芸に向き合おうとする静かな決意だった。
優勝しても「スタートライン」
宮田さんは、チンドン屋として長年にわたり、南九州で第一線を走ってきた。
チンドン屋の起源は江戸時代。派手な衣装で人目を惹き、チンドン太鼓と呼ばれる太鼓をにぎやかに鳴らしながら街を練り歩き、商品や店舗の宣伝をする「歩く広告請負業」とでも言うべき存在だ。
花ふぶき一座は南九州で唯一のチンドン屋として、本拠地の都城はもちろん、県内外のイベントに出演し、にぎやかな姿と音で多くの人を楽しませてきた。テレビやラジオ、新聞にも数多く取り上げられてきた。
だが、当の本人に“大物”の自負はない。
2019年の全国優勝。やりきった、到達した、そんな感覚はなかったか。尋ねると、宮田さんは即座に首を振った。

「宮崎花ふぶき一座」の座長を務める宮田わかなさん
「ないない。ないですね。初恋が実ったっていう気持ちはあったんですけど、今思えば、たまたま運が味方して結果が出ただけ。あれが事実上のスタートラインです」
プロとしての本格的な活動から27年。それでも、宮田さんは自らを駆け出しのように語る。
「優勝しても、まだまだ満足していない」「まだペーペーで、涙が出るくらい悔しい」「女性だから、都城だから、生き残れたのかも」「ずっとスタートラインにいる」「まだまだ、ふらふらしてんのかな自分、と思う」……。
なぜ、日本一になってなお、この人は自分を「スタートライン」に立たせ続けるのか。誰もが認める実力者が、なぜ「まだ」と言い続けるのか。
その姿勢の原点はいったいどこに。話を聞くと、学生時代に出会ったある言葉に行き着いた。
笑顔と元気を与えるひと
都農町出身の宮田さんは、教員を目指して関西の大学へ通っていた。しかし、20歳のころ、自分が目指すべきは教員ではないかもしれないと思い直す。
将来について考えあぐねていたとき、当時取り組んでいたマラソンのコーチから、「ひとに求めるより、ひとに与えるひとになりなさい」という言葉をもらった。
「その言葉にすごく感銘を受けて、生き方が変わりました。どこに行ってもいろんな人から『あなたは元気がいいね!』とか『笑顔が素敵だね』とか言われて。じゃあ、私はみんなに『笑顔と元気を与えるひと』になろうって決めたんです」

就職活動ではアナウンサーを目指したが、不採用。フェニックスリゾート(宮崎市)に入社した。
「女性だって外で働いてもいい」と考えた宮田さんは、上層部に掛け合い、当時はまだ珍しい女性営業として駆け回った。だが、オーバーワークがたたり、年に一度は入院。「サラリーマンは向いていないのかも」と思うようになっていた。
1995(平成7)年、結婚と同時に大阪へ移住した。タレント養成所に通いながら、かつての夢を追いかけ、フリーアナウンサーにも挑戦。イベントや結婚式の司会として生計を立てるも、”これだ”と思える職には出会えずにいた。
そんなとき、宮田さんに転機が訪れる。
「チンドン太鼓があるからやってみないか」。1997(平成9)年、司会を担当したイベントで出会った大道芸人から誘われたのを機に、夫と2人、週末だけチンドン屋をすることになったのだ。

大阪での“夫婦”初舞台(宮田さん提供)
「私はあまり乗り気ではなかったんですが、夫が大好きで。『学生時代に初めて見たチンドン屋が琴線に触れて、忘れられない』とか言ってて(笑)。最初は趣味というか、お手伝いのような感覚で始めました。アコーディオン演奏を独学で勉強して、商店街を練り歩いたりして。そうしたら、子どもやお年をめされたかたがすごく喜んでくれるんですよ」
「20歳のとき、ひとに笑顔と元気をと、勝手に“天命”みたいに思って、その手段としていろんなことをやりましたが、チンドンが一番フィットしたというか。チンドンで出会う人たちの笑顔が、一番私が幸せに思えたんです」
人生を変えた「なにわや」との出会い

「なにわや」の親方(左)と。中央が宮田さん(同上)
大阪では「花吹雪一座」と命名され、活動していたものの、「当時はおもに大道芸のバックでのチンドン演奏だった」と宮田さん。そんな彼女をプロの世界に招いたのが、当時大阪で活動していたプロのチンドン屋「なにわや」だった。
「なにわやさんは、着物も髪も化粧も、すべてがしっかりと作り込まれていてかっこよくて、私たちとは全然違う。チンドン屋はよく『路上の歌舞伎役者』って言われるんですけれど、まさにその通り。惚れ惚れしてしまい、なにわやさんのところに通うようになりました」
翌年の1999(平成11)年、宮田さんはなにわやの一員として、富山県の全日本チンドンコンクール(プロの部)、愛知県の全国選抜チンドンコンクール(同)に出場。プロとしての本格的な活動が始まった。
しかし、ここから27年ものあいだ、チンドンに魅了され、苦しめられ続けることになるとは思ってもみなかった。
「一流は場所を言い訳にしない」

大阪時代の宮田さん(同上)
本格的なチンドン生活が始まった矢先、宮田さんは身ごもった。
2000(平成12)年に長女を、翌年に長男を出産後、「長男として墓を守りたい」と望む夫の地元、都城へ戻ることを決める。「本当は大阪でもっとチンドンを学びたかった」という宮田さん。「迷いはもう、すごかったですよ。引き裂かれる思いです」。
そこで、条件を夫に提示。「都城でも、絶対にチンドン屋だけはやるから。これだけは私の命、魂」と譲らなかった。
「夫はまさかチンドンを続けるとは思ってなかったはず。でも、私のなかでは、『さあ、これから!』っていうときに妊娠して、またセミプロぐらいに戻った自分が悔しくて。もう1回プロになりたい、そういう気持ちもあった」と宮田さんは当時を振り返って笑う。
その思いを夫は汲んでくれ、2003(平成15)年に心機一転、新たに「宮崎花ふぶき一座」として都城で旗揚げ。ところが、都城にチンドンの土壌はなかった。
「まず『チンドン屋』って言っても、『は?』っていう感じ。『え、お金取るの?』って」。仲間もいない。それでも、宮田さんは土地のせいにしなかった。「一流とか本物は、場所を言い訳にはしない。辞めるという選択肢はないんです(笑)」。
大阪や福岡へ出るという選択肢もあったはず。それでも20年以上、都城に残ったのは家族がいたからだと宮田さんは話す。
「お母さんがチンドン屋だから、と我が子に苦労させたくない。子育てがあるから、長男の嫁だからチンドンできないの? とも言わせたくなかった。欲張りかもしれないけれど、家族の幸せもチンドンも、私は両方を手にしたかった」
やがて南九州唯一のチンドン屋としてさまざまなイベントに呼ばれ、華を添えた。2006(平成18)年からは、花ふぶき一座として全国大会にも参加。子育てをしながらチンドンに取り組む様子は注目を集め、一躍「宮田わかな」の名は多くの人に知られていった。
チンドンの活動が知られるようになるにつれ、講演や司会、ワークショップ講師、イベントプロデュースなど、チンドン以外の依頼も舞い込むようになった。
新たな“師匠”との出会い
そして、大阪時代とはべつの“師匠”と出会う。
伝統的な和芸を生業とする、とある芸人を「勝手に追いかけて、勝手に師匠と思わせていただいている」。弟子と認められているわけではなく、迷惑がかかるからと名を明かしてもらえなかったが、その“師匠”によって宮田さんの“本業”に対する情熱の炎が再燃した。
「とにかく何の芸をしても一流だし、かっこいい。気遣いもすばらしく、人間性も尊敬できるすごいかた」に大きく影響され、合気道や書道も始めた。


上は宮崎花ふぶき一座の事務所が入る都城合気道錬成会(都島町)。下は宮田さんの書
芸を磨くことの大切さに改めて気付かされ、「よし、またこれから頑張っていこう」と決意した矢先、宮田さんを取り巻く環境は大きく変化する。2010(平成22)年に発生した口蹄疫だ。
イベントは相次いで中止になり、スケジュールは真っ白に。ちょうどテレビのドキュメンタリー番組で活動を取り上げられ、「さあ、これから!」というタイミングだっただけに、その衝撃は大きかったという。
「周りからは『チンドン以外の仕事をしたら?』『バイトしたら?』なんて言われました(笑)」と宮田さんは冗談めかして語るが、先の見えない状況のなか、活動を続けることへの不安は決して小さくなかったはずだ。それでも、宮田さんはチンドンを手放さなかった。
むしろ、口蹄疫によって苦境に立たされた地域のために何かできないかと考えた宮田さん。義援金を募る活動や復興イベントの企画なども自ら行いながら、チンドン屋としての経験をさらに重ねていった。
覚悟を決めて悲願の全国優勝
そして2019(令和元)年。第53回全国選抜チンドンコンクール(プロの部)で悲願の優勝を果たす。大阪で理想のチンドン屋と出会ってから約20年。ようやく辿り着いた日本一の座だった。それはある覚悟を決めて戦い抜いた大会でもあった。

宮崎県内のメンバーだけで挑んだ2019年、優勝を果たした(宮田さん提供)
全国選抜チンドンコンクールは3人編成で出場する。しかし、宮崎県内にはチンドンに携わる人が少なく、それまでの花ふぶき一座は県外から助っ人を招いて大会に臨むことも少なくなかった。そんななか、この年の宮田さんは「宮崎や南九州のメンバーだけで出場する」と決めた。
「全国大会に出るのなら、地元の子と出たいとずっと思っていました。だけど、地元で助っ人を探すのは本当に難しくて……。この年は腹をくくって探し続け、ようやく宮崎県内でメンバーが揃ったんです」
「ただ、メロディーを担当する楽師は見つからず、桶太鼓とゴロス太鼓(大太鼓)、チンドン太鼓のパーカッション3つだけで挑みました。それが逆に、審査員の目には新鮮に映ったのかもしれません」

チンドンの命ともいえるチンドン太鼓。鉦(かね)と平太鼓、締太鼓の3つで構成され、軽快な音色が魅力
実際、花ふぶき一座は以前から全国大会でたびたび上位入賞を果たしていた。それでも宮田さんにとって、地元メンバーとともに勝ち取った2019年の優勝は特別な意味を持つものだった。
しかし、その喜びも束の間。翌2020(令和2)年、新型コロナウイルス感染症が流行。10年前の口蹄疫のときと同じ、いやそれ以上の光景が広がっていた。「『さあこれからだ!』っていうときに、いつもブレーキがかかるんですよ」と宮田さんは笑う。
人と触れ合う機会が失われるなか、それでも宮田さんは芸を磨き続けたが、追い打ちをかけるように、コロナが明けても別の“現実”が待っていた。
「教育委員」の4年間で感じたジレンマ
宮田さんはコロナ禍の終盤、2022(令和4)年4月、都城市の「教育委員」に任命され、教育長含めて5人で構成する教育委員会の一員となった。
任期は4年。2026年3月に退任するまで、市の教育関係者や児童たちと接するなかで、思い知らされたことがある。
ある講演で、聴いていた女性校長が、こんな感想を寄せた。「わかなさんがチンドン太鼓を鳴らして入ってきただけで、思わず笑顔になりました」。それでも宮田さんはこう言う。
「チンドンが全然、浸透していない。まだまだ理解されてないなって。全然知らないですもんね、みんなチンドンなんて。都城に生きて、優勝もしたけれど、チンドン自体が広がっていない。目の当たりにしてショックというか。私はなんだったんだ、この土地にやってきて、なにを一生懸命やってきたんだっけって」
悔しさがこみ上げ、「人生かけて追いかけないと悔やみそうだな」「このままじゃ終われない」と奮起。努力が形になり、2025(令和7)年には第59回全国選抜チンドンコンクールで準優勝を果たす。日本一となった2019年以来、改めて全国の舞台で評価された瞬間だった。

2026年の全国選抜チンドンコンクール出場メンバー(宮田さん提供)
しかし、冒頭で紹介した通り、2026年の第60回全国選抜チンドンコンクールでは6位。コンクールが終わって5日後。まだ自身のなかでまとまらない気持ちがあるようにも見えたが、「自分の甘さが出た結果だと思う」と宮田さんは冷静に分析していた。
「直前になって、シナリオを一部変えたところがあったんです。そのときは、良かれと思ってそう判断したんですが、結果としては悪い方向に転んでしまった。守りに入ってしまったんだと思います。生半可な気持ちでチンドンをやってきたつもりはないけれど、でも肝心なときにこういう弱さが出てしまう……。だからもう自分で自分を思い切り叩きのめしました(笑)」
だが、落ちているわけではない。むしろ、チンドンへの情熱は最高潮に達している。
「落ち込んでる場合じゃない。すごく攻めたパフォーマンスを見せた出場者の方も多くて、『もっと練習しなきゃ!』と痛感しました。それに、毎年出場しているから、地元の方が応援してくれる。『遠くから来てくれてありがとう』とか。頑張らなきゃって思いますよね」

全国大会開催地(愛知県)のファンに握手を求められる。Tシャツには宮田さんのサインが(宮田さん提供)
「『花ふぶき一座』が、まだ作れていない」
「笑顔と元気を与えるひとになれたと思いますか?」と尋ねると、「そこは、なれていると思います。チンドン屋じゃない時も、私と出会えてよかったと思ってもらえるように、周りの人がにっこりすることを軸において日々、生活しています」と答えた宮田さん。一拍置いて、「でも……」と続けた。
「『花ふぶき一座』が、まだ作れていない。私の思い描くチンドンが、まだできていない」
笑顔を与える人には、なれたかもしれない。けれど、その手段に選んだチンドンは、やりきれていない――。
宮田さんはチンドンという「芸道」をこう表現する。
「チンドンは請負広告業ですが、総合芸術でもあります。お客さんに足を止めてもらわなければならないので、幅広い世代に応じた音楽を演奏しなければいけないですし、歌を歌うこともあります。踊りも踊るし、衣装も着こなさないといけない。芝居的な要素もあるし、フリートークが必要な場面もある。技術の追求という点において、終わりのない世界なんです」
「もし私が満足していたら、チンドン屋をやめていると思う。でも、なにをやっても満足しない。全力でやるんですけどね。だから多分、死ぬまで続くんでしょうね」

全国選抜チンドンコンクールを翌週に控えた5月中旬、メンバーは合気道の道場で熱心に稽古に励んでいた
「助けて、と言いなさい」
2026年4月からは鹿児島県曽於市のコミュニティFM「SOO Good FM」のパーソナリティに挑戦している。これもチンドンの技術のため。きっかけは勝手に師事している師匠の言葉だった。
滑舌のために歌舞伎の「外郎売」を練習し直したところ、「ただ原稿を読んでるだけ」「まだ滑舌が悪い」「自分のものになっていない」と言われ、考えさせられた。「話術や話芸を一から学び直したい」という思いから、パーソナリティを務め始めた。「どこまで自分を磨いたら感動してもらえるか、極めるところまで磨きたい」。
芸を磨くための“環境”面の課題も、師匠は見抜いていた。
「これまでは営業も企画も、ほとんど全部自分でやってきたんです。マネージャーみたいな存在がいるわけじゃないので、お仕事の売り込みや出演料の交渉も自分でやるし、イベントの準備もするし。加えて、周りの方々のお世話もしたくなる。でも、そういうことに使う時間を少し抑えて、もっと芸に向き合う時間を増やしたいと思うようになりました」
気づけば一人で抱え込みすぎていた。自分はプレイヤーなのかマネージャーなのか。チンドン屋なのか、便利屋なのか——。「ざわざわ」とした感覚が、ここ数年あった。「もうそれが悔しくて悲しくて」。
師匠からは、ずっと言われていた。「あなたは僕とは違う。助けて、と言いなさい」と。でも、「家族に迷惑をかけたらいけない、みんなに心配させたらいけないって……」と言えなかった。ついに、このあいだ、師匠から言われた。「そのままなら、僕は離れますよ」。
「本当は私、弱いんですけれど、ずっと強がってきて、一人で背負いすぎて。でも、自分が本当に作りたい、打ち込みたいことにもっと専念して磨き上げたい。そのためにも、マネージャーとまではいかなくても、横にいて『あとは任せて磨いてください』とサポートしてくれる人がいたら助かるなと、今は考えています。『わかな応援団』みたいな(笑)」
ある朝、つながった師匠の教え
チンドンに身を投じて29年。ようやく最近、自分はなにを追い求めるべきなのか、整理がついてきた。
よそを真似ても極められない。先日、師匠からも「宮田さん、まだ周りの真似になってる」「もっともっと、吐くほど自分が何なのかを考えて、自分の色を出しなさい」と言われた。
「ほかを気にせず、『これがあるから宮田わかなのチンドンなんだ!』っていうのが、私のなかでまだない。無我夢中に稽古する時間を取れたら、見えてくると思う。とにかく見つめ直して、自分の色を作りたい、作りたいって、ずっと思っているんです」

そうしたら今度は師匠からこんな言葉も返ってきた。「宮田さん、あなたはオリジナルをつくろうとしていませんか?違いますよ」と。
ある朝に目覚めた瞬間、すとんと腑に落ちた。
「私は、『チンドン保存会』がやりたいわけでも、新派を作りたいわけでもない。私が守りたいのは、宣伝も芸も一流の“本物”のチンドン屋。正しく受け継いだ“生きた”チンドン屋が残ってこそ、人に笑顔を届け続けられる」
「だから今は自分と向き合い、チンドンに必要な芸を磨き、チンドンの世界できちんと地位を築きたい。師匠から言われたことの一つひとつを噛み砕いて、そう思い至りました」
ずっと考えていた2つの言葉が、つながった。「自分の色」とは、本物を体得した先に滲み出てくるもの――。だから宮田さんは、まだ学ぶ。
理想のチンドン
「うまく言えないのですが……本物になりたい。全国のプロの仲間からも認められたい。師匠から『やっと見つけたか』と言われたい。地域に愛されると同時に、全国レベルでも通用するようなチンドン屋でありたい」と宮田さん。「だってその方がかっこよくないですか!?」。そう言って笑う。

20歳のころ、周りを笑顔にする生き方を選んだ。その思いは、今も変わることはないが、続けるうちに「本物のチンドン」というゴールも見えた。
「“チンドンの幸せ”って、どんな場所でも、おじいちゃんおばあちゃんでも子どもでも、ニコッとさせられること。“お笑い”の笑いじゃなく、暮らしのなかで、道端のタンポポを見て『咲いてる!』とか、茶柱が立ったら縁起いいよねとか、そういう庶民の心にポッと咲くような笑顔」
「やっぱりチンドンってそれを与えられるし、それができるのは私しかいないと思っている。みんなの縁起物の招き猫のような、七福神のような、そんな存在になりたいなぁと。歩く宣伝屋にとどまらない、縁起物としての花ふぶき一座でありたい。わかんないですけどね。まだまだそこまで行けていないので」
東京にも大阪にも、商店街を練り歩くチンドン屋はたくさんいる。けれど、「都城でチンドン屋を続けている一人の女がいる。そんなドキュメンタリーが撮られるくらいに、なれたらいいな」とも願う。
「私はなにものでもない。宮田わかなという歩くパワースポットのような、どんなところでも通用するチンドン屋がいた、って思われて死んでいきたい」