「Mallmall」来場者数、累計700万人突破
かつて賑わいを見せていた地方の市街地。郊外の広大な敷地に構える大型商業施設の進出などに伴い、その多くが活気を失い、寂れてしまった。よくある地方都市の光景。5年前まで、都城市の中心市街地もそうだった。
それが、中核施設「Mallmall(まるまる)」のオープンで一変した。
市立図書館や子育て支援施設、交流広場などから成るMallmallは、2018(平成30)年4月にオープンした。それから丸5年。累計の来場者数は700万人を突破した。
コロナ禍で落ち込んだものの、2022年度にはコロナ以前の水準に近づくまでに回復し、2023年度は年間累計200万人をうかがう勢いで推移している。
世帯数約8万、人口約16万人の都城市。その中心市街地は息を吹き返した、と言える。
市街地“活性化”の歩みは、2012年11月から始まった池田宜永(たかひさ)市長の市政と重なる。
「私が子どもの頃は栄えていました。ですが、残念ながら私が市長に就任したとき、中心市街地に足を運ぼうという空気感はなかった。私自身、そんなに行きたいとは思わなかった、というのが率直なところです」
それを、ここまでどう持ってきたのか。まずは、栄えていた頃から振り返っていく。
昭和に栄えた中央通りと千日通り
都城の中心市街地は、都城市を南北に貫く幹線、国道10号の「中町」周辺を中心に栄えた。なかでも長らく地元民に愛された中町のランドマークが「都城大丸」である。
都城大丸は、戦前から続く地元の大浦呉服店が1956(昭和31)年に開業した百貨店。大丸松坂屋百貨店が展開する「大丸百貨店」とは無関係ながら、国道10号に面し、歓楽街の中央にあった都城唯一の百貨店は中心市街地の象徴となった。
1962(昭和37)年、中心市街地の国道10号両脇がアーケード街となり、1963年には国道10号の拡張工事も完了。中央分離帯が設けられると、国道10号の中心市街地部分は「中央通り」と呼ばれ、さらなる発展を遂げる。
高度経済成長期の最終期、1973(昭和48)年には大型店舗の出店ラッシュが巻き起こった。中央通りでは、宮崎市に本拠を構える「寿屋」の都城店が、都城大丸のほぼ対面に進出。その約100m南では地元資本の「ナカムラデパート」も立ち上がり、100m圏内で3つの百貨店がしのぎを削ることになる。
同年、中央通りから少し距離のあるJR都城駅周辺でも「ダイエー都城店」「橘百貨店」が開業。橘百貨店は2年で破綻し、ほぼ居抜きで「旭化成サービス都城店」に生まれ変わった。
1956(昭和31)年 | 「都城大丸」開業 |
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1962(昭和37)年 | 上町中町アーケード工事完了 |
1963(昭和38)年 | 国道10号中央通り拡張工事完了 |
1973(昭和48)年 | 「橘百貨店」開業(1975年閉店) |
〃 | 「ナカムラデパート」開業 |
〃 | 「ダイエー都城店」開業 |
〃 | 「寿屋都城店」開業 |
1975(昭和50)年 | 「旭化成サービス都城店」開業 |
1977(昭和52)年 | 千日通りアーケード工事完了 |
一方で、中央通りと平行して1本内側に通る「千日通り」には、飲食店やパチンコ店、映画館などの娯楽が集中。1977年、千日通りにもアーケードが整備され、南九州有数の歓楽街として鹿児島県の志布志市など近隣自治体からも多くの客を誘った。
5つの大型店舗がひしめき、歓楽街も充実していた都城の中心市街地。南は大隅半島まで商圏を伸ばし、都城を活性化させた。
だが、その栄華はモータリゼーションの進展と郊外の大型店舗に奪われることになる。
賑わいの転換、衰退へ
都城はクルマ社会。JR日豊本線が都城を東西に貫いているが駅間が広く、また、都城大丸まで都城駅から徒歩20分、西都城駅からは徒歩15分の距離と、使い勝手が悪い。発展期、人々の多くはバスで中心市街地に向かっていた。
そのうち、モータリゼーションの波が押し寄せ、クルマ移動が定着すると、いわゆる「ロードサイド型」と呼ばれる郊外大型店舗の出店攻勢が全国的に見られた。都城も例外ではない。
1986年開業の「ハンズマン吉尾店(DIYホームセンター1号店)」など、中央通りや中心市街地から外れたエリアに続々と大型店舗が登場。中心市街地の集客力は郊外に奪われ、街の様相が変わっていく。
すると1995(平成7)年、中央通りのナカムラデパートが閉店し、「メインホテル」という宿泊業へと業態転換。都城駅前の旭化成サービス都城店も店を畳んだ。
2002年には、都城大丸の眼の前にあった寿屋都城店も閉業。これにより、さらに“まちなか”の人通りは目減りし、中心市街地の求心力が失われていった。
これに追い打ちをかけたのが、「イオン都城ショッピングセンター(SC)」である。
1995(平成7)年 | 「ナカムラデパート」が宿泊業に転換 |
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〃 | 「旭化成サービス都城店」閉店 |
2002(平成14年) | 「寿屋都城店」閉店 |
2003(平成15年) | 「イオン都城ショッピングセンター」開業 |
2004(平成16)年 | 「都城大丸センターモール」開業 |
〃 | 「ウエルネス交流プラザ」開業 |
2007(平成19)年 | 千日通りアーケード撤去 |
2008(平成20)年 | 「イオンモールMIELL(ミエル)都城駅前」開業 |
2011(平成23)年 | 「都城大丸」閉店 |
イオン都城SCは、南九州初のイオンSCとして2003年4月に開業。鹿児島県には2007年までイオンSCが存在せず、近隣の霧島市や鹿屋市なども含む広範囲から集客した。また、立地は国道10号から外れているものの、中央通りから自動車で4〜5分も走れば着く距離で、中心市街地からすれば大きな脅威となった。
同年、10号線沿いに「ユニクロ都城店」も開業。全国区の大手資本が中心市街地にダメ押しの打撃を与えた。こうした状況に最後まで抗ったのが、中央通りの老舗、都城大丸だ。
2つのイオンに挟まれた中心市街地
イオン都城SC開業の翌2004(平成16)年、都城大丸はそれまでの本館を増床してリニューアル。さらに、道路を挟んだ隣接地に、本館と渡り廊下でつながった「都城大丸新館センターモール」を、そのまた隣接地に巨大な立体駐車場を開業させ、テコ入れを図った。
売り場面積は、本館の1万4615平方メートル(㎡)にセンターモールの6700㎡が加わり2万㎡超に。イオン都城SCの売り場面積約2万3000㎡に匹敵する規模となり、センターモールでは10代後半から20代、あるいは若い子育て世代を意識したテナント・商品政策を打ち出すことで対抗した。
しかし、まさに孤軍奮闘。「もうひとつのイオン」がとどめを刺す。
じつは、かつて中心市街地を繁栄させていた5大大型店舗のうち、駅前にあったダイエー都城店だけが800台ほどを収容できる大規模無料駐車場を備え、モータリゼーションの波に乗ることができていた。それが、1990年代からのダイエーの経営不振で弱体化。ダイエーの経営再建に参画したイオンが2008年、ダイエー都城店跡地を引継ぎ、大型スーパーと約100の専門店から成る「イオンモールMIELL(ミエル)都城駅前」として再生させた。
これにより、都城の中心市街地は北と南のイオンに挟まれる格好となり、中央通りへの人流がさらに途絶えていった。リーマンショックも打撃となり、2011(平成23)年1月の初売り中、都城大丸は民事再生法の適用を申請。60年以上の歴史に幕を閉じた。
中央通りのシンボルであり、最後の大型店舗でもあった都城大丸。その閉店は、中心市街地を危機的な状況に陥らせる。閉店後、アーケードで囲まれた周辺の商店街のほとんどが店を畳み、シャッター街と化したのだ。
行政の後押しも及ばず
この間、行政が手をこまぬいていたわけではない。
大型店舗の閉店で中心市街地の衰退が目に見え始めてきた1999(平成11)年、都城市は「中心市街地活性化基本計画」を策定。中央通りの都城大丸周辺を重点地区とし、土地区画整理事業を推進した。
中心市街地が車での来訪需要に対応できるよう、462台収容の「ウェルネスパーキング」を2002年に開業。2004年には、都城大丸の筋向かいに、市民活動やまちづくりの“交流拠点”を目指した多目的ホール「都城市ウエルネス交流プラザ」をオープンさせた。
国も「シビックコア地区整備計画」で中心市街地の活性化を後押しした。同計画は、政府施設、地方行政施設、民間施設を都市計画に盛り込んで集中させる地域整備の政策。国土交通省が主導し、全国の各自治体でも公共施設が点在していた全国18の市町が対象に選ばれた。そのひとつが都城市だ。
2003年、中央通りの一角に、「ハローワーク都城(都城公共職業安定所)」や税務署などが入居する「都城合同庁舎」が完成した。
こうした動きを受け、都城大丸も新館と立体駐車場を新設する投資を決断した。が、及ばなかった。
1985(昭和60)年のピーク時に9000人を超えていた、まちなかの歩行者量は、都城大丸が閉店した2011年、約20分の1の450人ほどまで激減。店も人通りもなくなった。
日用品や食品を得ることもままならない。そのうち、中心市街地に住んでいた住民も居を便利な郊外へと移しはじめ、シャッター街どころか、ゴーストタウンの様相も呈してきた。
池田市長が初当選を果たし、市長に就任したのはまさにこの頃。
中心市街地の再生にどう挑むべきなのか。そして、市民にとっての象徴でもあった都城大丸跡地をどう活用すればいいのか。池田市長は、ある決断をする。
(次回に続く)
「Mallmall」誕生の軌跡[前編] 大丸跡地再開発、池田市長の妙案