深く多面的に、考える。

まちにたたずむ歴史 #05

教科書に載らない「暮らしに潜む史跡」 廃線跡・橋りょう・用水路が物語る歴史

  • ぶつ切りにされた鉄道高架の断面に、大正ロマンを感じる橋脚。
  • 暮らしには今も都城の歴史を物語る史跡が数多く潜んでいる。
  • 都城というまちをかたちづくってきた確かな記憶をたどった。

宙に浮くコンクリートの塊

西都城駅近くの細い道を歩いていると、宙に浮いた巨大なコンクリートの塊が視界の隅に映り込んだ。非日常な光景に一瞬たじろぎ、目を向けてみる。するとそれは、ぶつ切りにされた鉄道高架の断面だった。

住宅街に突如現れた鉄道高架の断面

しばらく考えたのちに、思い当たったのが1987(昭和62)年に廃線となった「志布志線」の存在。1981(昭和56)年生まれの筆者にはあまりなじみがないものの、かつて志布志まで鉄道が走っていたという情報が頭の片隅にあった。

調べてみたところ、宙に浮いたコンクリートの塊は旧・志布志線の高架が撤去されたあとの一部だということがわかった。

こんな具合で、私たちの暮らしのなか、すぐあしもとにも都城の歴史を物語るあらゆる史跡が潜んでいる。裏側をのぞくと時代の足跡が無数に刻まれており、当時の人々の営みが目に見えてくるようだ。

それらは必ずしも文化財に指定されるような、あるいは教科書に載るような重要度・注目度の高いものではないかもしれない。しかし、都城というまちを確かにかたちづくってきた存在であることに違いはない。

そんな「暮らしに“潜む”史跡」をたどってみた。

志布志線廃線跡に残る記憶

冒頭の旧・志布志線の高架跡に戻ろう。西都城駅から伸びた高架は途中で日豊本線と分岐し、その先で志布志線の高架が唐突に途切れている。

日豊本線と旧・志布志線の分岐点

普段は目にすることのない高架の断面が、住宅街に無造作に顔を出している様子に思わず釘付けになるが、風景に溶け込んでいるようにも見えるから不思議だ。

ここで、旧・志布志線について少し説明したい。1923(大正12)年に、都城〜末吉間で開業。その後延伸し、1925(大正14)年に志布志駅まで結んだ。その10年前には宮崎線(現、吉都線)が開通していたこともあり、志布志線の開通は都城の発展に大きく貢献した。

都城駅は大正二年一〇月八日営業が開始され、都城は吉松経由の鉄道で全国と結ばれたのであった。このあと間もなく志布志線の工事も始まり、同一二年一月一四日には西都城、今町、末吉の各駅が営業を開始し、同一四年三月三〇日には志布志まで開通した。こうして都城町は交通の要所となり、物資の集産地として急速に発展していくことになった。

(『都城市史 通史編 近現代 第2節 諸産業の発展と交通網の整備』より)

じつは、志布志線は開業当時から高架線だったわけではない。もともと日豊本線とともに市街地を走っていたが、まちを分断し、交通事故が絶えないという理由を背景に、1979(昭和54)年に高架化された。しかし、そのわずか8年後、廃線となってしまう。

国鉄は志布志線の廃止を運輸大臣に申請、志布志線沿線の自治体は、志布志線・大隅線廃止反対の総決起大会を開催するなど反対運動を展開したが、国鉄の分割民営化に先立ち昭和六二年三月一七日廃止され、大正一四年(一九二五)開通以来の歴史の幕を閉じた。

(『都城市史 通史編 近現代 第3節 二〇万年を目指して』より)

かつては急行列車も走り、地域の足として活躍していた志布志線だったが、「国鉄民営化」という時代の波には逆らえなかった。都城はもちろん、沿線の鹿児島のまちでも反対運動が起こり、不安や憤りの声が聞かれたというが、その甲斐なく志布志線は全面廃止となった。

ただし、廃線跡の路面を整備した「志布志ウエルネスロード」には、今も当時をしのばせる史跡がそこかしこに残されている。

志布志ウエルネスロードの起点付近に架かる「高千穂橋」

スタート地点の鉄道記念公園(甲斐元町)から歩き始めてすぐの地点にある、萩原川に架かる「高千穂橋」。ここは、かつて鉄道が走る跨川橋があった場所だ。

コースの途中には、埋設標識杭も残っている。地下に通信ケーブルなどが埋設されていることを示しているのだろう。

高千穂橋の土台に残された橋歴板(上)と、コースに添うようにいくつも残されていた埋設標識杭(下)。鉄道が走っていた時代をしのばせる

西都城駅から4キロメートル(km)の場所には、「今町駅跡」があり、こちらも鉄道記念公園として整備されている。

C1264号機関車が保存展示されているほか、一部の線路やプラットフォームが残されており、ひっそりと時を留めているようだ。

「今町駅」跡には線路やプラットフォームなどの一部が残されている

志布志線は廃線となってしまったが、吉都線や日豊本線は今も力強い走行音をまちに響かせている。なかでも吉都線は見どころが多い。時代の面影をたどってみよう。

レトロな表情を見せる橋

市のホームページには、こんな歴史の記述がある。

明治22年に九州で初めて鉄道が開業した後、明治29年11月に人吉〜吉松間が開通しました。

当時、鹿児島本線の駅であった吉松駅から分岐して、吉松~小林町(現在の小林市)間が宮崎線として大正元年に開通し、翌年の大正2年10月8日、現在の吉都線の区間である都城駅まで全長61.6キロが開通しました。

宮崎線はさらに宮崎、重岡方面へ延伸されて豊洲本線とつながり、日豊本線となりました。その後、昭和7年に都城〜隼人間が開通し、小倉〜都城~隼人~鹿児島が日豊本線、吉松〜都城間が吉都線となりました。

(都城市ホームページ『JR吉都線の歴史と駅を紹介します』)

ちなみに、当初は都城を迂回するルートで検討されていたというが、当時都城には陸軍の歩兵第64連隊の設置が決まっており、兵力の移動や軍需品の輸送の関係上、軍事的な重要性が高かったことなどから、都城を通過することが決まった(『都城市史 通史編 近現代 第6章 都城の産業と経済』より)。

都城の発展を語る上で、「軍都」としての歴史は避けて通れないということがよく伝わってくる。

さて、現代に戻ろう。1913(大正2)年に全線が開通し、110年以上の歴史を誇る吉都線。今も当時の痕跡を色濃く残している箇所がある。

庄内川に架かる橋りょう

乙房町と菓子野町のちょうど境界のあたり。庄内川に架かる橋りょうは、3脚のうち1脚がレンガ・石積みの橋脚となっている。国内では、明治時代から大正時代にかけて鉄道網の発展にともなって、石やレンガを材料とするトンネルや橋りょうの構造物が作られたという。

レンガ積みの部分を両脇から石積みで支えるような構造となっており、重厚で趣深い。どっしりとした風格も感じられ、離れた距離からでも思わず圧倒されそうになる。

橋りょうたもとの橋台もレンガで造られている

たもとの橋台もレンガで造られており、堅牢かつレトロな表情を見せてくれる。

庄内川から400メートル(m)ほど南下したところにある乙房避溢橋(ひいつきょう・川がない場所に設けられた橋)の橋脚も、庄内川橋りょうと同じような構造だ。庄内川橋りょうに比べて大きさや高さこそ及ばないものの、ずんぐりとしたたたずまいから力強さが感じられる。

どっしりとした乙房避溢橋の橋脚

中央部分はコンクリート造で、その周囲をレンガと石で支えているようだ。コンクリート造の形状に沿って、切石がじつに美しいアールを描いている。

また、庄内川橋りょうの北側には吉都線の線路下にレンガ暗渠(あんきょ)が設けられ、水が流れている。目立たない場所にあるため思わず通り過ぎてしまいそうになるが、楕円を描いたアーチはしっかりと吉都線を支えている。

吉都線の線路下で静かに口を開くレンガ暗渠

建造から長い年月を経ているにもかかわらず、今も健全な姿で活躍していることには驚くほかない。そしてそれ以上に、令和の時代を走り抜けるあしもとに、いまだ鉄道黎明期の香りが色濃く残っているということに、熱いロマンを感じる方も多いのではないだろうか。

都島公園に立つ門柱の正体

多くの市民でにぎわう公園にも、歴史を物語る史跡が暮らしに溶け込み、潜んでいる。

都島公園(都島町)の入り口に立つ4本の門柱。いずれも石造りで、高さが2メートル近くある。地域の公園の門にしてはいささか重厚で風格があるものの、何の変哲もない門柱のようにも見える。

都島公園入り口に立つ重厚な門柱

よく見ると「嶽下橋」の文字。どうやら、もとは門ではなく、橋の「親柱(おやばしら・橋の四隅にある柱)」のようだ。

「昭和八年三月架設」とも記されている。「嶽下橋」ということは、現在の「竹之下橋」と関連が深そうである。実際、都島公園から竹之下橋までは、350メートルほどの距離しかない。

「嶽下橋」と記された橋名板(上)。別の門柱には「昭和8年」の文字(下)。1933(昭和8)年は日本が国際連盟を脱退した年でもある

市の道路公園課に問い合わせてみると、設置の経緯などに関する記録は残っていないとのこと。そこで、竹之下橋の記録をさかのぼってみた。

江戸時代において竹之下橋には、宮崎市の赤江港へと続く水運の拠点として、数多くの川舟が集まった。その背景にあるのが、第22代都城領主島津久倫(ひさとも)によって行われた、当時巨大な岩が林立する激流だった高城町有水の「観音瀬」の開削。工事は1794(寛政6)年に無事完了し、竹之下橋からの通船事業が開始されることとなった。

現在の「観音瀬」

その後、明治時代に入って石橋に架け替えられ、1979(昭和54)年に現在の竹之下橋になったという。

四か年の歳月をかけて、ついに明治一七(一八八四)年一一月に長さは三四間、幅二・三間の石眼鏡橋が完成した。当時の橘橋(宮崎市)は木橋であったので、この橋は県内最大の石橋だった。

(『都城市史 通史編 近現代 第3章 明治前期の経済と社会』)

上流にはかつて都之城(今の歴史資料館)が築かれ、重要な橋であった。当初は渡し場があり、広い川原は縁日に市が立ち賑わったという。(中略)江戸時代の木橋は現在の位置より約90m上流にあった。明治時代に現在の場所に石橋が架けられた。(中略)現在の橋は昭和54年(1979)に架け替えられたもので、橋の中央部が丸くなったアーチ状の橋である。

(大淀川流域地名いわれ事典「竹之下橋」)

推測するに、都島公園入り口にある門は、1933(昭和8)年に架けられた竹之下橋の親柱で、1979(昭和54)年の架け替え工事の際に移築されたのではないだろうか。都島公園そのものも、1980(昭和55)年に整備されており(『都城市史 通史編 近現代 第14章 戦後の都城』より)、タイミングもちょうど良い。

現在の「竹之下橋」

都城の発展に大きな役割を果たしてきた歴代の竹之下橋。その功績を称え、架け替えの際に親柱を残しておこうという思いが関係者のなかにあったのだろうか。あるいは、都島公園は旧陸軍墓地であることから、都城空襲で焼け落ちることなく、太平洋戦争を乗り越えた竹之下橋の記憶を残しておこうという意味合いもあったのかもしれない。

多くの市民が行き交う公園の片隅に、江戸から現代までの記憶が、ひっそりと、しかし確かに刻み込まれているのである。

米づくりを支えた「高木原用水路」の痕跡

国道10号を市中心部から宮崎市方面へと走り、沖水川を渡って都北町を抜けた先の国道両側一帯は「高木原(たかぎばる)」と呼ばれる。

高木原の向こうに霧島連山をのぞむ(都城市提供)

広い平地に田畑が広がり、米づくりが盛んな地域。秋には田んぼに稲穂が揺れ、農作物の収穫風景を見ることができる。車を走らせながら、左右に広がる田畑の緑に心が癒されると感じる市民も多いのではないだろうか。

しかし、かつての高木原に広がっていたのは、全く違う風景だった。

高木原は沖水川の扇状地の扇央に当たり、砂利層が厚く水に乏しいため開田が困難であった。当時の高木原は原野と山林(松林)が多く、人々は大淀川流域に水田を少しばかり作り家の周囲の畑から取れる粟や甘薯を常食としていて暮らしぶりは貧しかった。

(『もろかた第35号 「高木原緑道」と高木原用水路 山下節子)

そんな状況を受け、1912(大正元)年、時の宮崎県知事有吉忠一は、高木原の開田を県の事業として進めることを決めた。水源を今町有里付近の大淀川とし、市街地の東部を通り、沖水川の川底を抜けて高木原へ水を引くという一大プロジェクトである。

「高木原用水路」と名づけられた用水路の全長は約14.3kmにもおよび、農業用用水路としては異例の長さだったという。途方もない計画だったが、1914(大正3)年に着工。事業費は総額21万6000円(現在の金額で7億7000万円)にものぼる大工事だった。

もちろん当時は重機などはなく、大変な難工事となったが、紆余曲折を経て「高木原用水路」が完成。少しずつ田畑は増え、1986(昭和61)年にその使命を終えるまで大地と人々の暮らしを潤した。鹿児島県との県境近く、今町有里の取水口付近には、当時をしのばせる痕跡が残っている。

ずいぶんと錆びてしまっていた水門を開閉するハンドル(上)。「高木原用水路(下)」は子どもたちの遊び場でもあったという

水門を開閉するハンドルのすぐ近くに水源となる大淀川が流れている。枯れ草で覆われていて確認しづらかったが、下には水門も残されているようだった。

用水路にも雑草と枯れ草が生い茂っていたため、確認しづらい箇所が多かったが、水が流れている箇所もあった。

取水口から300メートルほど歩くと、「ずい道(トンネル)」も残されている。コンクリートとレンガで造られており、今もその役割を果たしている。

用水路に残るずい道

また、用水路跡地の沖水川から萩原川までの5.9キロメートルは高木原緑道として整備されている。沖水川土手近くを始点とするウォーキングコースで市民の憩いの場であると同時に、ところどころにかつての記憶が残されている。始点には高木原用水路の案内板や記念碑が並ぶ。

都城泉ケ丘高校近くの「高木原の広場」には、復元されたずい道も設置されている。

復元された大岩田町のずい道。「高木原の広場」にある

先ほど紹介した実際のずい道は近くから見ることは難しいが、こちらの復元されたものは間近で見て触れることができる。おいそれとは崩れなさそうな堅牢なたたずまいが歴史を感じさせ、趣深い。

現在の高木原用水路周辺は、九州自動車道の都城インターチェンジや国道10号の通過に加え、志布志道路も開通したことで交通の要所としての存在感が増している。また、大型店舗が立ち並び、ディーラー街や工業地域としての側面も大きい。

しかし、今もまだ豊かな緑をたたえる田畑は多く残る。収穫された作物は、私たち市民はもちろん、県内あるいは全国の人々の食卓を彩っている。その背景に、高木原用水路の存在があることを忘れてはならない。高木原地区が開田されることがなければ、都城の発展は大きく違うものになっていたかもしれないのだ。

私たちが当然のように享受している恩恵は、無数の人々の苦労の上に成り立っているということを改めて感じる。高木原緑道をはじめ、用水路の痕跡は今も市内のあちこちに残り、私たちに“当たり前”の尊さを静かに伝えているのだ。

都城の歴史に触れてみよう

西都城駅近くの志布志線高架跡、大正時代の面影を残す吉都線の橋りょう、都島公園にたたずむ竹之下橋の親柱、そして米づくりを支えた高木原用水路の痕跡……。

これらはすべて、都城というまちをかたちづくってきた確かな記憶である。

文化財として守られているものではないため、いつか消えてしまうかもしれない。風化し、取り壊され、人々の視界から消えていくこともあるだろう。

しかし、そこに刻まれた人々の営みや思いというものは、現代に生きる者が当時を思い、その記憶を語り継ぐことで、生き続けることができる。

そのためにも、暮らしに潜む史跡に一人でも多くの人に気づいてもらい、時代を超えた人々の思いや営みに触れてほしい。その瞬間、歴史は受け継がれるのだから。

参考文献:
都城市史編さん委員会『都城市史 通史編 近現代』
南九州文化研究会『第135号 南九州文化 戦いの記憶』
都城史談会『もろかた 第35号』
都城市教育委員会『郷土学習資料 高木原用水路』
都城市教育委員会『“みやこんじょ”を知ろう‼︎都城の歴史と人物【増補改訂版】』
JR吉都線100周年記念事業実行委員会『吉都線全線開通100周年記念誌』

取材協力:
都城市土木部道路公園課

  • 筆者
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三角園 泉

三角園 泉(みすみぞの・いずみ) 「Think都城」記者。宮崎県都城市在住。大学ではメディア論を学び、文学や音楽、お笑いなどのカルチャーに幅広く触れる。2017年よりライターとして活動。近年は採用系コンテンツや企業・団体の情報発信の取材・執筆、事業者の広報サポートなどに携わる。趣味は各地の田の神さぁを巡ること、街を歩くこと、短歌を詠むこと。ぼんちくん推し。

  1. 教科書に載らない「暮らしに潜む史跡」 廃線跡・橋りょう・用水路が物語る歴史

  2. あしもとに刻まれた文化財 島津家隆盛の裏で懸命に生きた証

  3. まちに息づく石蔵・石垣を訪ねて “石”に宿る記憶をたどる

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