花火より長い「メッセージ」
「さあ、真っ暗に近づいてまいりました。5からカウントしようか? 10け? 10からカウントね!」「みんなで言いながらだよ。ゼロまでやったらどっかーんですからね!」
2024(令和6)年8月10日、19時30分過ぎ。威勢のいい“おばちゃん”の声が響く。カウントがゼロになると、田園風景が広がる「庄内(しょうない)地区」の夜空に花火が散った。
都城市の中心市街地から「霧島バードライン」を通って車で15分ほど北上すると、庄内川を渡る庄内橋にさしかかる。庄内地区の入り口とも言える橋。その西岸に広がる河川敷で「荘内(そうない)メッセージ花火」が開催された。
オープニング花火が数分で終わり、夜空が漆黒を取り戻すと、ふたたび威勢のいい声が聞こえてきた。
マイクを握る司会進行役(MC)が「じゃあ、行きますよ!第1部花火、個人の皆さんのメッセージと、法人のかたと、読み上げます。名前を呼ばれていらっしゃるかた、返事をしてください!」と問いかけると、子どもたちの元気のいい声が響いた。
「A(名前、以下同)さんの長女、Bちゃんが初孫を産みます!予定日が9月です!安産祈願を、ときこちゃん、たのんでなーっち。Bちゃーん、がんばれよー、すっぽん!これにて安産祈願」「Cさんとこの、Dくん!来年はピッカピカの1年生。元気に学校に行こうね!じいじとばあばより」……。
子や孫の成長を思うメッセージや誕生日を祝うメッセージなどが読み上げられるたびに、沸き立つ会場。花火よりも、メッセージ紹介の時間のほうが長い。それが、この“花火大会”最大の特徴である。
メッセージが10分ほど読み上げられ、各々の思いが込められた花火が5分ほど打ち上がり、また熱気のこもったメッセージ紹介へ移る。メッセージと花火のセットは3部まで続き、合計1時間ほどの熱いショーは幕を閉じた。
老舗の井上煙火が4000発
荘内メッセージ花火は、都城市の庄内地区と西岳地区(ともに旧・荘内町)の有志によって開催されている。2023(令和5)年に続き2回目。花火は本格的だ。
花火師は、地元の井上煙火。都城市で創業して以来120年以上の実績を誇る老舗で、「都城焼肉カーニバル」と同時開催の「肉と焼酎のふるさと・みやこんじょ花火大会」のほか、全国各地の著名花火大会を手がけている。
2024年の打ち上げ数は、初回の3000発を上回る「約4000発」。みやこんじょ花火大会の「1万2900発」には及ばないものの、市内ではそれに次ぐ規模である。
ところが、一般的な花火大会とはだいぶ様相が異なる。
大々的な宣伝や集客はなく、イベント会場があるわけでも、出店があるわけでもない。観客でごった返す、花火大会恒例の風景が見当たらないのだ。
「実行委員会からのお願い」として、事前に「当日、イベント会場は設けていません。ご自宅や事業所、農道、広場にてご観覧ください。農道や広場でご観覧の場合、持参物やごみは必ずお持ち帰りください」と告知していた。
冒頭のマイクパフォーマンスの声が聞こえる“会場”はある。打ち上げ場所から数百メートル先にある徳石石油本社の敷地に数十人ほどが集まったが、多くの観客は自宅の庭先や庄内川周辺の広大な田畑・農道に散らばり、各々がゆったりと鑑賞した。
地元の消防団員や実行委員会で準備した警備員などが打ち上げ規制区域を守ったが、それ以外の交通規制などはなく、渋滞もない。そして、資金はすべて実行委員会と住民からの「寄付」によって賄われている。
地元による地元のための風変わりな花火大会。いったい、なぜこんなことを始めたのだろうか――。
冒頭で紹介した威勢のいい声の主が、その理由を会場で語っていた。
庄内と西岳のみんなを元気に
「1956年、昭和31年7月15日に庄内町と西岳村が合併して『荘内(そうない)町』ってなりました。それで、荘内メッセージ花火になっております。去年が1回目でした。この庄内川の河川敷で花火が上がれば、どげんよかろかい、地元んしに喜んでもらえるやろかいという思いから、メッセージ花火というのを立ち上げました」
「ひと玉ひと玉に思いを込めた花火を皆さんに見ていただくことで、庄内、西岳、ひいては都城の皆さんが、元気になってくださればこんなに素晴らしいことはないよね、地域が元気になればよかよねっていうのが、このメッセージ花火のコンセプトです」
オープニング花火の前、荘内メッセージ花火の実行委員でMCも務める野間登志子さん(68歳)は、こんな挨拶をしていた。
庄内町と西岳村が合併してできた旧・荘内町は、1965(昭和40)年、都城市と合併し、今では庄内地区・西岳地区と呼ばれている。
ともに、市中心部に比べて人口減少と高齢化が進む、いわゆる中山間地域。都城市が推進する「都城市中山間地域等振興計画」の対象となっている。庄内・西岳地区を含む中山間地域等8地区の高齢化率(人口に占める65歳以上の比率)は40%超、西岳地区に限れば60%超という状況だ。
そんな地域で育つ子は、まさに宝。子どもや地域に元気を与えようと、地元の女性が中心となり、荘内メッセージ花火が企画された。ただし、それだけが理由ではない。
地域活動の積み重ねや、そこへの「思い」。そして、地元企業同士の「縁」といった様々な要因が重なった結果、実現に至った。
ストーリーを理解するためには、時計の針を35年前に戻す必要がある。
原型は「まつり西岳」の花火
「もともとは1989(平成元)年から、西岳の若手有志が30人ほど集まって、地元を盛り上げるため『まつり西岳』を開催していました。隣町の庄内にはお祭りがいっぱいあるのに西岳の高野町には千足(せだらし)神社の『六月灯(ろっがっどう)』だけしかない!」
「庄内に負けんくらい盛りあぐっど!という強い思いだけで、みんなで材料を持ち出し、仕事 の合間を縫って350㎏の神輿、舞台、衣装、すべてを手作りしました。会場のうしろを流れる千足川をバックに、10 発か20 発の花火を打ち上げたのが始まりです」
2024年10月の取材日、登志子さんは開口一番、そうまくし立てた。
登志子さんは長年、家業である徳石石油の取締役を務めている。徳石石油はプロパンガス事業を祖業に1963(昭和38)年、登志子さんの両親が創業。1967(昭和42)年にガソリンスタンド(GS)事業に参入し、「西岳SS(現・ENEOS 西岳SS)」をオープンさせた。
登志子さんも家業に入ると、1985(昭和60)年には隣町の庄内地区に「庄内SS」をオープン。1989(平成元)年、有限会社徳石石油を設立し、さらなる事業拡大に挑んだ。
そのタイミングで当時、35歳だった登志子さんも有志の一人として「まつり西岳」を企画。徳石石油を育ててくれた地元への感謝の意味合いもあった。
登志子さんいわく「最初は“屁のような”お祭りだった」というまつり西岳は、地域住民に愛される毎夏の恒例行事となる。そのなかで人気のメインイベントとして定着したのが、登志子さんがMCを務めるメッセージ花火である。
花火はすべて“自前”。住民からの寄付金や、会場で福引きができる「抽選券」の売り上げで賄った。次第に、「恩師の還暦祝い」にと1万円ずつ持ち寄る同級生グループや、「結婚祝い」「出産祝い」にと数万円を出す祖父母などが増えていく。
そのメッセージ、一つひとつを独特の登志子“節”で読み上げ、会場を盛り上げた。これが、荘内メッセージ花火の「原型」である。
登志子節の花火大会は次第に地元で話題となり、多くの寄付金が舞い込むようになった。会場も「西岳小学校」のグラウンドにアップグレードされ、2006(平成18)年頃には花火の打ち上げ数が「1000発」規模まで拡大した。
のちに荘内メッセージ花火の実現につながる「出会い」が生まれたのは、その頃である。
まつり西岳が終わった本当の理由
「西岳のお祭りが楽しいよっていう話を聞いて、それで、たまたま両親の金婚式かなんかで、寄付をして花火を上げてもらおう!となって行ったんです。そうしたら、もう本当に登志子さんの話術がすばらしくて。一瞬で、虜(とりこ)になりました」
そう興奮気味に話すのは、庄内地区に本拠を置く丸宮建設で取締役を務める河野由理さん(65歳)。今回のストーリーのもう一人の主人公だ。
丸宮建設は、由理さんの祖父が1950年に創業した老舗建設会社。由理さんも登志子さん同様、家業を手伝った。
ともに広域の旧・荘内町に根ざす家族経営の番頭的な役回り。きっかけさえ掴めば、距離が縮まるのに時間はかからなかった。
由理さんは数年間、まつり西岳に寄付を続け、通い詰めた。だが、2008(平成20)年を最後に、20年続いたまつり西岳は終焉を迎える。その理由を登志子さんはこう語る。
「全国で花火大会の事故が頻発しだして、ものすごく規制が厳しくなったんです。まつり西岳も、打ち上げ場所と会場の距離が近すぎるということで許可が下りなくなって、他の場所を探したんですが、見つからず。上げるところがなくなっちゃいました」
そう話したところで、思い直したようにこう続けた。
「毎回、3月には実行委員会が動き出し、8月の開催前になると 1 カ月以上かけて舞台設営からチケットの準備・販売、子どもたちへの伝統踊りと歌の指導など、仕事がすんでから毎晩のように奔走していました。終了後も舞台を解体したり、会場の片付けをしたり。今考えるとすさまじいパワーだった。すべてが、ものすごく楽しかった」
「だけど、20年もやって歳を重ねると“減退”してくるんですよね。30歳だったものは50に、40歳のものは60になっちゃう。そうなった時、本当は次の世代に繋がんといかんとですよ。それが1番大きな課題でした」
「けれども、後輩が入ってこない。その苦しさとの葛藤もあった。だからきっと、花火を上げる場所が、許可がというのは言い訳だったような気がします。コロナのせいにするのと一緒。やめたならば、解放される自分も見える。燃え尽きるじゃないけど、やりきった。正直、潮時かなという思いもありました」
打ち上げ場所の問題は、一つのきっかけに過ぎなかった。
コロナ禍で温められた復活
20年のあいだに少子高齢化が進み、新たな担い手となるべき若手はまちを出ていき、喜ばせるべき対象の子どもたちもずいぶんと減った。大変な思いをしてまで続ける理由や意味が薄れていた。
とは言え、あきらめきれない自分もいた。やめた当時、登志子さんはまだ55歳。彼女の顔をみたひとが、「いつ上げるの?」「どげんかならんとね」と声をかけてくれる。
悶々と10年を過ごした登志子さんは2019(令和元)年、自社単独で開催した「徳石まつり」で、燻っていた気持ちを打ち上げ花火にのせた。
徳石石油は、まつり西岳をやめた頃から、庄内地区で自動車販売(ディーラー)事業に乗り出し、板金塗装事業も始めていた。徳石まつりは、そうした顧客に向けた「お客様感謝デー」として企画され、庄内にある都城酒造の敷地を借りて開催。そこに乗じて、登志子さんは、少ないながら花火を打ち上げた。
この花火を自宅で観ていた丸宮建設の由理さんは地団駄を踏む。「徳石さんが上げるんだったら、うちも協賛をしたのに!次は一緒にやりましょうよ」と持ちかけ、10年の充電期間を経た登志子さんの気力も、湧き上がった。
そこへ新型コロナウイルスが襲う。往年の登志子節の復活はいったん立ち消えとなるが、コロナ禍が終息しつつあった2022年の冬、「もう、上げてもいいよね!」と互いの思いが噴出。一気に実現へと動き出した。
しかも、まつり西岳の時には引き継げなかった新しい世代が加わるかたちで。
「花火さえ上がれば、思いは伝えられる」
由理さんの娘である河野なつきさん(33歳)が2023年3月、32歳の時、14年ぶりに故郷の都城へ戻ってきた。最後の5年はメキシコ赴任だった。
帰国するや否や、母の由理さんから「徳石さんのところに花火の協賛の話をしてきて」と言われ、登志子さんのところへ出向くことになった。なつきさんは、こう振り返る。
「あくまでも私は『丸宮建設が徳石さんの花火に協賛する』という認識でいました。でも、登志子さんは『共同主催』だと。『え、いいんですか!?』『じゃあ、やりましょう!』となって、私も実行委員としてかかわらせていただいたんです」
丸宮・徳石の若手女性も含めて実行委員会が結成され、コンセプトを決めるところから始めた。
コンセプト決めに際して、登志子さんにはあるこだわりがあった。
「まつり西岳のように、舞台を設営して、人集めをして、片付けて、というのはどこかで息切れがくる。でも、花火さえ上がれば、思いは伝えられる。メッセージがあるから感動してもらえる。花火だけなら、絶対に続く花火大会になる」――。
やるのは、思いを伝えるメッセージと打ち上げ花火。余計なことはしない。類まれなるシンプルな花火大会の骨格が決まった。
打ち上げ場所は、庄内橋西側の広大な河川敷が最適だった。県道から100m離すことが条件だが、確保してもなお余裕があり、周囲に建物は一つもない。
そこから200mほど離れたところに、2022年に建てられたばかりの徳石石油の新社屋もある。舞台も出店も必要ない。メッセージを読み上げるだけの会場として、新社屋の敷地は十分だった。
花火の打ち上げ申請や許可取りは、徳石石油が慣れている。道路の一時通行止めなどの許可取りや警備手配などは、丸宮建設の得意領域。2社とも地元に根づいた企業であることから、周囲の田畑の地権者との交渉もスムーズにいった。
同じことが起きる確信「あった」
なにより、老舗の井上煙火が引き受けてくれたことが大きい。かくして2023年8月、西岳で育まれたメッセージ花火が復活した。
公民館長に許可を得て、西岳地区と庄内地区の回覧板で案内をしたものの、突然の打ち上げ花火に驚いた住民も多かった。事前に一般からのメッセージと寄付も募ったが、周知が至らず小規模。初回のメッセージ花火は、数百万円かかった経費のほとんどを徳石石油と丸宮建設が折半して寄付するかたちとなった。
このまま“持ち出し”が続くかもしれない。しかし登志子さんには確信があった。
「誰かへの思いを込めた花火が夜空を一瞬だけでも飾った時、やっぱりひとはぐっとくる。琴線に触れたひとたちが、じゃあ来年は子どものために、結婚を祝うために、弔うためにと思って花火が続いていくのを、私はまつり西岳で20年も見てきています」
「時代も場所も違えども、また同じようなことが起きるという確信が私にはありました」
2024年は、その確信を深める結果となった。
井上煙火の厚意もあって経費総額は前年並みに抑えられたが、その出どころは変わった。個人・法人あわせて約100組から寄付金が集まり、打ち上げ経費の約半分を賄うことができたのだ。
「この次はもっと集まる」と見通す登志子さん。「花火をみたひとが、次は自分が誰かに思いを伝えたいってなる連鎖が起きたらいいな」と話すなつきさんに、「絶対に起きる!あれを観たら、寄付したくなるって」と即答で返した。
花火が地元に帰るきっかけに
2025(令和7)年の開催日は8月9日。寄付金がさらに増えることを見越して、次回はより大きな規模を狙っている。
「(これまでの予算を)ぶち破りたいよね」とする登志子さんに、由理さんは興奮気味に言った。「去年より良かった!って言ってもらいたいよね!」。
メッセージと寄付による“参加”は、地元にこだわっていない。地域外からでも、来るもの拒まずの姿勢で規模拡大を目指す。ただし、なつきさんはこう釘を刺す。
「田舎を盛り上げるため、一緒に大きくしていけるんだったらいいなと思うんですけど、やっぱり“商業”っぽくはしたくないという気持ちがあって。思いを乗せた花火を打ち上げる、というコンセプトは崩したくないです」
そう話すなつきさんは、参加のきっかけづくりとして「SNS」にも期待する。
荘内メッセージ花火では、田んぼのあぜ道や自宅などで鑑賞するひとも登志子節をライブで聞けるよう、YouTube上で生配信を実施。Instagram(インスタ)も活用して告知などを行った。
単なる観客の集客をしたいわけではないため、SNSは控えめに展開した。「今後、SNSをどう広げていくかが難しい課題」となつきさんは言うが、手応えも感じている。
撮った花火の写真をシェアしてもらうようインスタで呼びかけると、20枚ほどの写真が集まった。「『どこよりも良かった』とか、『地元でこんなん見られるなんて思わなかった』みたいなコメント付きで紹介してくれたかたもいて、それはすごく嬉しかったです」。
先々は、都城を出ていった同世代にもSNSを通じて花火の存在が伝わり、帰ってくるきっかけになれば、とも願っている。
「帰ってきて友だちがいなさすぎて、寂しかったんですよ。地元の友達はみんな出ちゃっているので。それもあって、インスタやLINEでみんなに『花火あるから、ちょっと来ない?』みたいな感じで案内したら、何人かが遊びに帰ってきてくれて」
「そういう、ちょっと久しぶりに実家に顔を出そうかな、というきっかけから、その先、Uターンしようかなという気持ちに少しでもつながってくれたらいいなって思います」
登志子さんにも、先々にかける思いがある。
子どもたちが花火からもらうもの
「大きな狙いっていうのは、やっぱり私の中では、もう子どもたちなんですよ。家族愛や郷土愛だったり、地元で踏ん張る力だったり、子どもたちが花火からもらうものって、絶対にある。それをあげるのは大人。大人が頑張った先に、この花火大会があるわけです」
「父ちゃん母ちゃん、じいちゃんばあちゃんから愛をもらった子たちが、『こんなすごい花火が地元で上がる』と思えて、『これを止めることがあったらいかん』『自分らも貢献せんないかんよね』っていう気持ちにつながると、ずっと続いていけると思うんだよね」
「だから10年20年先、大人になった時、今度は自分たちが次の子たちのために返していく、あげられるひとになるっていうところまで行くと、大成功かなって思います」
次の世代へ思いを渡し、また次の世代へとつなげていく。まつり西岳でできなかった無念を、登志子さんは荘内メッセージ花火で果たそうとしている。
誰かが上げた花火を楽しむのではなく、思いを込めて自分たちで打ち上げることを喜ぶメッセージ花火。それが、中山間地域の救世主となるかもしれない。