平日もにぎわう「都城島津邸」

「都城島津邸」の御門。1935(昭和10)年の陸軍大演習に伴う改修のときに設置された
都城市役所から車で東に3分ほど。わずか1キロメートル(km)足らずの場所に、都城の歴史を知ることができる「都城島津邸」がある。
駐車場に車を停めると、ちょうど大型の観光バスが出発するところだった。そろいの法被を身にまとったボランティアガイドが、大きく手を振って見送っている。
「最近多いですね。1日に2〜3件のバスツアーの団体さんが来られることもあります」と話すのは、都城島津邸で学芸員を務める中嶋愛さん。「ボランティアのガイドさんですが、ガイドの内容や質は“プロ”級です」と笑顔をこぼす。
中嶋さんは、都城島津家に関する調査や研究に取り組むほか、専門知識を活かして文化財の価値を訪れる観光客などに伝えており、展示の企画や運営なども担う。

都城島津邸で学芸員を務める中嶋愛さん
約5000坪もある敷地内には、都城市指定文化財にもなっている本宅、剣道場や農芸館、石蔵のほか、都城島津伝承館などがあり、その豊かな歴史を伝えている。
いわば、都城における“本流”の歴史。まるで、市内を滔々と流れる大淀川のようだ。
しかし、時代とは“本流”だけで構成されるものではない。そこには、あまたの“支流”も横たわっている。そして、本流とあわせて支流も知ることで見えて来るものがある。
当時の「民」、名もなき人々が懸命に生きた証――。その足跡をたどった。
「島津発祥の地」の2つの意味
まずは、本流である「島津」と都城の関係性を理解しておきたい。都城は「島津発祥の地」と言われている。そもそも、発祥とはどういうことなのだろうか。
「じつは『島津発祥の地』には2つの意味があります」と中嶋さん。それは、「島津“荘”」と「島津“家”」、2つの発祥の地という意味だと教えてくれた。
「平安時代の万寿年間(1024〜28年)、太宰府の役人だった平季基が都城盆地を中心とする地域を開発したと言われています。この地域を当時、朝廷で実権を握っていた関白藤原頼通に寄進したことで、『島津荘(しまづのしょう)』が成立しました。『島津』という地を中心としたことから、そう名付けられました。現在の郡元町付近だと考えられています」
島津荘の成立当初、その範囲は都城市と三股町のほぼ全域、曽於市財部町・末吉町の一部だったが、次第に鹿児島県全域にまで広がり、8000町歩(約8000ヘクタール)にも及ぶ日本最大級の荘園となった。これが島津荘の始まりだ。
もう一つの発祥について、中嶋さんは説明を続けた。

都城島津伝承館の資料室で中嶋さんに話を伺った
「次に、『島津家』の始まりについてです。鎌倉時代に入り、1185(文治元)年8月に源頼朝が島津荘の下司職(げすしき・荘園の管理人)に、『惟宗(これむね)忠久』を任命しました。それ以降、忠久は地名をとって『島津』を名乗るようになりました。これが『島津“家”発祥の地』と言われるゆえんです」
島津忠久はその後、拠点を鹿児島県へと移行。南北朝時代の1352(文和元)年、島津本家の4代島津忠宗の6男、資忠(すけただ)が、足利尊氏から現在の都城市北西部にあたる「北郷(ほんごう)」と呼ばれる地を合戦の恩賞として授けられ、「北郷資忠」と名乗るようになった。
「北郷家は島津家の分家ではありますが、島津氏と対等な立場にありました。それは、北郷氏の所領が幕府から直接与えられたもので、島津氏から独立したものという意識もあったからでしょう」と中嶋さんは説明する。
江戸時代に入ると、北郷家は島津本家からの命によって姓を「島津」と改め、ここに「都城島津家」が誕生した。1869(明治2)年の版籍奉還によって島津久寛が領地と領民を朝廷に返上するまで、都城領内を統治することになる。
ここまでは、いわば栄華の歴史であり、時代の表舞台。
一方、300年に及ぶ統治の裏側には、時代の荒波に揉まれ、領主たちの采配に翻弄されながらも必死に生き抜く人々の姿があった。その営みの痕跡を示す史跡や文化財が、都城のそこかしこに横たわっている。
命をかけて祈り続けた「かくれ念仏洞」
まず向かったのは、高城町有水。宮崎市へと向かう国道10号を北へと入り、しばらく車を走らせたところに、「田辺かくれ念仏洞」の案内板が立っている。

「田辺かくれ念仏洞」の看板が通り沿いに立っている
この史跡を理解するには、当時の時代背景を知る必要がある。
1597(慶長2)年、17代藩主島津義弘によって「一向宗(浄土真宗)」が正式に禁止された。しかし信者たちは地域ごとに「講」と呼ばれる集団を作り、ひそかに信仰を続けていた。
「一向宗が禁止された理由は、強力な組織力と結束力を持つ一向宗の勢力を恐れたからとも言われていますが、定かではありません」と中嶋さん。ともあれ、信者は厳しい弾圧のなか山の中や洞穴などに隠れ、「法座」と呼ばれる説法の集会を開いた。
これを「かくれ念仏」と呼ぶ。もちろん、都城でも弾圧はあった。『薩摩かくれ念仏と日向 一向宗禁制と六十六部(前田博仁 著)』には次のような著述がある。
一向宗門徒と疑うと会所(現在都城警察署がある所)に連れていき自白を迫るが、白状しないと拷問を行った。先ず太い青竹で、臀部、上腕、脛、上膊を打つ。竹が割れるほど打つ。樫の棒で打つ場合もあった。打った所が化膿して蛆がわいても容赦なく打った。
男の場合は三角柱の割木を数本並べた上に正座させ、膝の内側に棒を挟ませた。それだけでも苦痛であるがさらに膝の上に板状の石をのせ自白を強要する。それでも自白しないと石を加え、その重さは五、六十斤(30〜36kg)にもなり、さらに膝に挟んだ棒を左右から棒で叩く
このほかにもさまざまな拷問の方法が記されているが、どれも目を逸らしたくなるほどの苛酷さである。それでも人々は信仰を続け、洞穴で祈りを捧げた。その一つが、冒頭の田辺かくれ念仏洞というわけだ。

田辺かくれ念仏洞へと続く山道。50mほど下る
通り沿いから、簡易的に整備された山道を50mほど下っていったところに田辺かくれ念仏洞はあった。
うっそうとした木々に囲まれた奥地。周囲には湧き水があふれ、水たまりも広がっている。

田辺かくれ念仏洞の入り口。中には洞穴が広がり、池もあったようだ。現在は立ち入ることができない
訪れた日は小春日和の暖かさだったにもかかわらず、いつのまにか空気がひんやりと変化していて、吐く息が白い。当時の人々が監視の目から逃れ、この場所へたどり着き、救いを求めたのかと思うと胸が詰まる。
ここは、都城市内に残るかくれ念仏洞で最大規模を誇る。奥行きは26mで高さは3m70cmあり、約40人を収容できたという。崩落の危険があるため、現在は立ち入ることはできないが、暗く静まり返っている内部を入り口から覗き込むことはできる。

中には入れないが、洞穴内の形状が解説されている
信者がここに集まる時は、わざわざ馬の手綱や釣竿を持って出かけた。役人にとがめられると「馬を探しに行く」「釣りに行くところだ」などと言い逃れをしたとか。逆境下でも、したたかに一途に信仰を守り、生き抜こうとした人々の息づかいが聞こえてくるようだった。
信じるものを守り抜こうとした痕跡はほかにもある。
破壊から逃れた奇跡の石仏群
かつて、歴史の教科書で「廃仏毀釈」について学んだことを覚えているだろうか。明治時代初頭、政府によって行われた神仏分離令に端を発する仏教の抑圧・排斥運動。なかでも薩摩藩領内では激しく断行されたことで知られている。
薩摩藩では西洋化を推し進めるため、寺の持つ広大な土地や鐘などの金属資源を没収し、軍備費を拡大したいという思惑もあったとされる。
「僧侶は還俗(げんぞく=一般人に戻ること)させられ、寺は焼き払われました。古文書や仏像などの文化財も徹底的に破壊されたといいます」と中嶋さん。都城にも廃仏毀釈の波は激しく襲い掛かり、仏教に関するものはほとんど失われたといわれる。

「天長寺(都島町)」の駐車場

小高い丘の上に石仏群はある
そうしたなか、天長寺(都島町)には完全な姿で仏像が残されていた。
天長寺の記録によると、1868(明治元)年10月12日、役人と神官がやってきて寺の取り壊しを行ったという(のちに再興)。その際、奇跡的に無傷で残ったのが、ここにある石仏群だという。

「阿弥陀如来坐像」。手元は瞑想の状態をあらわす「弥陀定印」を結んでいる
代表的な石仏を見ていこう。まず目を惹くのが「阿弥陀如来坐像」。総高167cmで蓮華座に座し、非常に迫力がある。

「不動明王と両脇侍像」。1564(永禄7)年に天長寺五世舜杲が奉納したとの銘が残っている
こちらは「不動明王と両脇侍像」。総高140cmで上段に不動明王坐像、下段に矜羯羅(こんがら)と制吒迦(せいたか)の童子を浮き彫りにした不動三尊像だ。
続いては、「地蔵菩薩坐像」。総高54cmで、光背(背後にある光の輪)が舟を立てたような形の「舟形光背」となっている。

「地蔵菩薩坐像」。光背の左肩に「天正⬜︎年十二月四日」の文字が刻まれている
いずれの石像も彫りが美しく、顔がはっきりと見て取れる。優れた石工によって彫られたのだろう。廃仏毀釈という荒波を乗り越えたと思うと、より崇高に感じられる。
現在も廃仏毀釈の影響は大きく、47都道府県における寺院数の平均は「1643カ寺」にもかかわらず、鹿児島県は「488カ寺」、宮崎県は「345カ寺」と極端に少ない(鵜飼秀徳著「仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか」より)。
それだけ、南九州では激しい取り締まりがあったということなのだろう。しかし、さまざまなやり方で人々は信仰を守ろうとしたと中嶋さんは話す。
「寺や仏像を壊しはするけれど、心を痛めたひとのなかには、こっそりと仏像を隠し持っていったり、石像を後からくっつけられるよう断面を平らにして壊したり、あるいは土の中に隠したりしたひともいた、という例もあります」
地域の信者も、寺の資産を守ることに一役買ったとみられる。
「安久町の興玉神社には、正応寺というお寺の薬師如来を祀った『厨子(仏像などの収納具)』が残されているんですよ。廃仏毀釈のときに地区の人々が正応寺からこっそりと持ち出し、興玉神社の内神殿として保管されるようになったようです」
ただ、そういった名もなき人々の声は記録として残っていないため、「遺物から推測するしかない」とも中嶋さんは話す。残された仏像たちは、密かに信仰を守ろうとした人々の心の証であり、その記憶を今に伝える貴重な“証言者”とも言える。
焼酎で体を温めて開削「観音瀬水路」
もちろん、暗い爪痕ばかりが残っているわけではない。
都城島津家は地域の発展を促す基盤整備にも注力した。今もその跡を確認することができる。そのうちの一つ、「観音瀬水路」へと向かった。

「観音瀬水路」の上流を眺める。向かって右側が高崎町、左側が高城町
観音瀬水路は、高崎町縄瀬・高城町有水間の大淀川の急流に存在する。江戸時代の中頃まで巨大な岩が林立した激流となっており、下流は高さ10mほどの滝になっていた。
そんななか、22代都城領主の久倫(ひさとも)は、観音瀬を開削すれば宮崎の赤江港までの舟路が開き、都城の経済が活性化すると考え、家臣の藤崎公寛(きみひろ)にこの工事を命じた。「とにかく難工事だったようです」と中嶋さんは話す。
「激流や岩が作業を阻むため、工事は困難を極めたといいます。水量が少なくなる冬の時期しか作業ができず、寒さのなか『焼酎』を飲んで、凍える体を温めながら作業を進めたという都城らしいエピソードも残っています」

観音瀬水路の歴史を伝える看板
1791(寛政3)年10月に着工し、1794(寛政6)年12月、左岸に幅一間(約1.82m)の水路開削が竣工した。そのときの逸話も残っている。
開通の当日、藤崎公寛(ふじさききみひろ)は、早瀬船(はやせぶね)が荷を積んで下っていく姿を岩の上で裃(かみしも)姿で刀を差して正座して待った。岩に当たって舟が沈んだら、その場で切腹して責任をとる覚悟であった。
船頭の櫓(ろ)さばきや竿(さお)の操り方一つで、無事に川下へ下っていく舟を見届けることができ、皆は大いに喜び合った。
(大淀川流域地名いわれ事典「観音瀬」)
現在の金額で「7億円」もの費用をかけて行われた工事であり、責任者である公寛のプレッシャーがいかほどのものであったか想像に難くない。
結果として、現在の竹之下橋から赤江港まで物資の運搬が可能となり、都城圏域の経済活性化に寄与した。また、1887(明治20)年には県による工事が行われ、1890(明治23)年、右岸にさらに幅一間の水路開削が完成している。

現在の竹之下橋。水路が通った当時は最も大きな橋だったという
12月〜2月は水量が少なく、実際に岩盤が開削された跡を見ることができる。のみで削った跡が今も生々しく残る。
もちろん当時、重機はない。真冬の冷たい水に浸かり、凍えそうになりながら、一つひとつ手作業を進めていったのだろう。当時の人々の苦労が偲ばれる。

関之尾の甌穴群を思わせるような開削の跡
今でこそ川面は穏やかな顔を見せているが、水流は思いのほか速い。激流に揉まれながら、硬い岩盤を掘削していた人々の姿を想像すると、身がすくむ思いだ。なお、周辺は滑りやすくなっているため、訪れる際は十分に注意してほしい。
山あいに残る「寒天“密造”工場」
続いて向かったのは山之口町。国道269号沿いなどに「島津寒天工場跡」という看板が立っているため、車を走らせながら気になっていた方も多いのではないだろうか。

山之口町にある「島津寒天工場跡」
「『島津』と『寒天』にどんな関係性が?」「都城に海はないのになぜ寒天工場?」など、筆者も前々から疑問に思っていた。中嶋さんに尋ねると「実は密造していたんです」との答え……。ますます混乱してきた。中嶋さんは続ける。
「江戸時代末期、薩摩藩は厳しい財政難に陥っていました。そこで、島津本家で財政改革にあたっていた家老調所広郷は、指宿で海運業を営んでいた浜崎太平次と協力し、山之口町に寒天製造工場を作ったんです」
「寒天の原料となるテングサは甑島などの薩摩西海岸から運ばれてきたようです。できあがった寒天は福山へと運ばれ、大坂や長崎を経て、中国やロシアに密輸されたといいます」

寒天工場跡の内部には巨大な窯が並んでいた
しかし、なぜ、わざわざ海から離れたこの地を選んだのだろうか。
「朝晩の寒暖差が大きいという、寒天を製造するのに適した自然条件を備えていたことが一つ。そして、幕府の役人の目を避けるためだったともいわれています」と中嶋さん。ちなみに、山之口は都城島津家の私領ではなく、島津本家の直轄領だった。
確かに、大きな通りから入ったひっそりとした場所に静かにたたずんでいる。周囲から聞こえてくるのは鳥の鳴き声だけ。当時はもっとうっそうとした山奥だったに違いない。
案内看板には次のような解説がある。
寒天製造の最盛期は、1854(安政元)年から1871(明治4)年頃までで、監督者や技術者は鹿児島から派遣され、従業員は西目(指宿、伊集院、伊作など)からの出稼ぎが約80名、地元採用で約50名であわせて約120〜130名であったといわれています。
地元はもとより鹿児島からもやってきた人々が、この静かな山あいの地でひたすら寒天を作っていたのだろう。
大きな釜にぐらぐらと湯を沸かし、たっぷりのテングサを炊く。近くには永野川が流れている。そこから水を汲んできたのだろうか。霧島連山から吹き荒ぶ「霧島おろし」は、寒天を乾燥させるのにもってこいだったのかもしれない。

まるで風呂のような釜

切石と石が積まれている
窯は直径130cm、高さ180cmほどで、切石が積まれ、隙間を埋めるように石が詰め込まれている。人一人が余裕で入れるほどの巨大な釜で湯を沸かすには、たくさんの薪をくべ、ゴウゴウと火を起こす必要がある。狭い工場は、灼熱だっただろう。
額に玉のような汗をかきながら作業に勤しむ当時の人々の姿が浮かんでくるようだった。
足元に今も残る“普通の人々”の軌跡
都城が発展する基盤を作り上げた都城島津家。一方で、歴史の流れに翻弄されながらも、日々の暮らしを守ろうと、祈りを捧げた人々がいた。時代や環境は違えど、現代を懸命に生きる私たちと重なる。同じ「普通の人々」の姿と言えよう。
そして、彼らの足跡は、普段何気なく通り過ぎている我々の“あしもと”に、深く、しっかりと刻まれている。最後に中嶋さんは、こう付け足した。
「歴史というのは領主やリーダーだけのものではなく、その地で生活していた人の積み重ねでもあります。都城にも、かつて動乱の時代を生き抜いた人々の足跡が数多く残っています。きっとお住まいの近くにも史跡や文化財があるはずですから、ぜひ探してみてほしいですね」
歴史とは遠い過去ではなく、今もこの場所に息づいているものだ。いつもより少し視線を下げて、先人たちの軌跡をたどってみてほしい。
参考文献:
都城市教育委員会『都城市の文化財』
都城市教育委員会『“みやこんじょ”を知ろう‼︎都城の歴史と人物【増補改訂版】』
前田博仁『薩摩かくれ念仏と日向 一向宗禁制と六十六部』
鵜飼秀徳『仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか』
山下真一『都城の世界・「島津」の世界 都城島津家・戦国領主から《私領》領主への道』
畑中章宏『廃仏毀釈』