奇跡の晴れ男
その日、都城市随一のレジャースポット「観音池公園」の芝生広場には、もくもくと煙が立ち込めていた。
2024(令和6)年10月26日土曜日、17回目となる「都城焼肉カーニバル」が開催。東京ドーム約13個分に相当する巨大公園の一角で、数万人が朝から焼肉と焼酎を堪能し、夜には1万2900発もの花火ショーを観て帰路につくという異色の“肉フェス”である。
午後1時過ぎに会場を訪れると、すでに芝生広場を埋め尽くすように設置されたバーベキューコンロで各々が肉を焼き、「黒霧島」をはじめとする霧島酒造の焼酎を流し込んでいた。中央ステージではフランダンスショーなどが催され、熱気を高めている。
ステージ脇の「本部」にいたのは、都城焼肉カーニバルの実行委員長である瀬尾典史氏。カーニバルを主催する一般社団法人 都城観光協会の理事も務めている。談笑していた瀬尾氏に「お天気が心配でしたけれど、開催できてよかったですね」と声をかけた。
「いや、今まで台風が直撃しそうなこともありましたけれど、一度も雨で延期になったことがないんですよ。それが今回は1週間ずっと雨が降っていて、今日もずっと雨予報で、もう無理かなって。昨日の段階では延期するかという話にもなっていたんです」
「でも、『もしかしたら変わるかもしれないから、最後まで待ってください』って言ってたら、雲が変わって。朝6時に集合して雲を見たら完全に切れていたんで、やろうと覚悟を決めて。ほんとにいろんな奇跡が生まれたねと話していたところでした」
前日の夜時点でも、開催日は終日の雨予報。初の延期もちらついたが、予備日の10月27日、日曜は衆院選の日。ボランティアの人手が半分になってしまうことに加え、運動会を予定する学校も多い。思い切った判断は、結果として吉にころんだ。
「消防も警察もみんな『やるんですか!?』ってびっくりしていました。さっき、池田(宜永)市長も来られて『よう決断したな』と。『俺やったら絶対中止にするわ。賭けに勝ったね』って言ってもらいました(笑)。なんとかいけて、本当に安堵しています」
そう顔をほころばせる瀬尾氏。隣には今年、会長に就任した都城観光協会の東郷研哉会長がいた。
「彼とは、約20年前の初回からの付き合いで、彼がメインでこのお祭りを作り上げてきましたけれど、本当に責任感の強い、頼れる男ですよ」。
曲折を乗り越え今に至る都城焼肉カーニバル。“晴れ男”の苦闘とともに歴史を追った。
手ぶらバーベキューを堪能
都城焼肉カーニバルは、「日本一の肉のまち都城」のPRと都城市への観光誘致を狙いとしたイベント。都城観光協会の主催で2006年から毎年10月に開催されている。
会場の観音池公園は、63ヘクタール(ha)という広大な敷地に、バンガローやオートキャンプ場、温泉施設、プール、観覧車なども備える巨大レジャースポット。毎年秋、ここの芝生広場に肉好きが集結する。
焼肉カーニバルの目玉は、手ぶらで気軽にバーベキューが楽しめること。17時頃、ふたたび会場を訪れ、カーニバルを体験した。
会場奥で、主催者が用意した「肉パック(前売り2200円、当日2500円)」を受け取る。混雑してはいたものの、席数は3200席と膨大で、目を凝らせば空いている。熱せられた炭を一輪車で運んでいるボランティアが、コンロに炭を置いてくれた。
肉パックには、牛豚鶏が合計250グラム、ぎっしりと詰まっており、焼肉のたれや紙皿、割り箸などもついている。大人2人でわけあってもお腹が満たされるボリュームで、ビールや焼酎も進む。
唐揚げや焼きそば、キンパ、かき氷などを販売する数十の出店も、バーベキューエリアを囲むように並ぶ。JA都城の大型直売店「ATOM(アトム)」や、大手卸のミヤチクなどが出すブースでも精肉や野菜を販売しており、ソーセージを購入して追加で焼いた。
この価格で、こんな気楽にバーベキューが満喫できるとは……。人が集まるわけだ。
当日は交通渋滞を避けるため、公園の駐車場を閉鎖し、無料シャトルバスが輸送を担う。周辺2箇所の臨時駐車場からは10分、JR都城駅からは40分ほどで会場に着く。車と電車、両方の需要に対応し、バスツアー用の駐車場は別途、会場の至近距離に確保してある。
今年は天候に恵まれなかったが、それでも約3万6千人を集客。夜にはふたたび雨が降る見込みだったため、花火の開始時間を30分前倒しするなどの対応に追われたが、大きな混乱もなく盛況に終わった。
数万人を集客する一大イベントへと成長した焼肉カーニバル。その歴史は、2006(平成18)年から始まった。
“新参者”が会長そばで実務
きっかけは、都城観光協会の堀之内芳久前会長(2023年に退任)による北海道白老町への視察だった。
白老町では毎年6月、10 00以上の炭火コンロが用意され、各自が名産の白老牛などのバーベキューを楽しむ「白老牛肉まつり」が開催されていた。人口2万人にも満たないまちに、2日間で4万人ものひとが集まり、焼肉を堪能する祭り。
ここを2005年に訪れた堀之内前会長が「こんなに素晴らしいものがあるのか」と感嘆した。
折しも、2006年1月1日に都城市、山之口町、高城町、山田町、高崎町の1市4町が合併し、畜産産出額が国内トップレベルに躍り出た時期。「牛豚鶏が有名になる都城がそういうことをしないのは、もったいない」と、2006年にプロジェクトが立ち上がった。
堀之内前会長の熱意から始まった企画に、当時、都城観光協会に加入したばかりの瀬尾“青年”は、右も左もわからないまま巻き込まれることになる。
「その時は27か28歳。ちょうど観光協会に入ったぐらいの年で、ぽっと出の“新参者”がわけもわからぬまま、会長のそばで焼肉カーニバルの立ち上げを手伝うことになったんです」と瀬尾氏は振り返る。
当時の観光協会はまだ法人化しておらず、観光業以外の異業種も多く混じる交流会のような様相も呈していた。そこに、保険代理業で独立したばかりの瀬尾青年は、都城観光協会の役員をしていた地元の先輩から「人を知らないとだめだ」と誘われ、「人脈を築きたい一心で加入した」。
一方、堀之内前会長は、都城版の牛肉まつりを2006年から始めるべく、組織固めから着手。重責を担う事務局長には瀬尾氏を誘った役員を指名した。その流れで、瀬尾氏も事務局次長として、開催へ向けた雑務を一手に引き受けることとなった。
と言っても、常駐する事務局員は瀬尾氏のみ。事務局は堀之内前会長の事務所内に置かれ、そこでほぼ毎日、実行委員長と瀬尾氏、そして補助のアシスタントで過ごすことになる。
「逃げは許さん!」
大きな戦略策定や方針は堀之内前会長中心に定められ、2006年4月、事務局とほぼ同時に実行委員会も発足した。観光協会の役員の多くは「都城青年会議所(都城JC)」のOBでもある。実行委員会には、観光協会の役員に加え、都城JCのメンバーやOBも参画していた。
その第1回会合で、「肉パックのチケットは1万枚の購入を目指す」とぶち上げた堀之内前会長。しかし10月の開催予定日まで残された時間は半年しかない。実行委員会のメンバーの一人が「会長、“勇退”っていう言葉、知っていますか?」と口火を切った。その時の出来事を、今でも瀬尾氏は忘れられない。
「『1万枚ものチケット、売れるか売れんかもわからんのに、ちょっと危険すぎるだろう』と。でも堀之内前会長は『そんなことはしない!』『みんなでやればできるんやが!責任は俺が持つ!』って」
「それから、ぶわーっと進んでいきました。やるんだという前会長の意志の強さと、それに向かって一気に動いた仲間の団結力というのはすごかったですね」
2006年6月には、再度、白老牛肉まつりを視察。瀬尾氏も同行し、炭火のおこし方や運び方などのオペレーション、警備・誘導、出店構成などを運営目線で学んだ。
堀之内前会長は建設会社の経営者でもある。JCを中心に、都城地区建設業協会青年部も加わり、炭運びのボランティア組織が出来上がっていった。同時に、当時、300人ほどいた観光協会の会員に向け、チケット購入を促す手紙を発送。堀之内前会長がすべて直筆で署名した。瀬尾氏は、この対応にも追われた。
「事務局に電話が来るんです。買うよというひともいれば、『どういうこと?買えということか?』と聞いてくるひともいて、僕はわけがわからないなりに、でも、みんなが一生懸命なのはわかっていたので、『どうかわかっていただければ』と対応していました」
会長はじめ、50代半ばの役員たちが必死になって1万枚のチケットを売ろうとする様を見て、20代の瀬尾青年は気圧され、なんとか助けになれればと日々、懸命に働いたという。
50代の役員と一緒に涙
都城市などが後援に名を連ねたものの、スポンサーはわずかで、資金はチケットの売り上げ頼み。それでも1万枚をなんとか売り切り、2006年10月、記念すべき初回が無事に開催された。
瀬尾氏はこの時の得難い感動が、その後の人生や命運を左右したと語る。
「ボランティアが少ないので、都城の中枢にいる50代後半の社長や会長たちも、エプロンをして炭運びをするんです。若い僕らぐらいの年齢のお客さんが『おじさん、炭!』とか言うんですよ。それでも、みんな笑顔なんですよね。それが印象的で」
「60歳近い方々と僕ら独立したての20代が同じ苦労をして、最後に会社の社長、会長たちから『仲間だ』と言ってもらえて。加えて、会場のみんなが笑顔で焼肉を焼いたり話したりする姿を見て、なぜかうれしくてみんなで涙が出ました」
開催直後、堀之内前会長が地元のラジオ番組に出演した際、当たり前のように「来年もがんばります」と言った。自然な成り行きで引き続き瀬尾氏が事務局を担うことに。肩書きは事務局長となり、2回目、3回目の開催を取り仕切った。
一方で、周囲から「JCに入れば感動をもっと味わえる」と言われ、翌2007(平成19)年1月には都城JCにも入会。そこから、瀬尾氏の人生は躍動していく。
JCでの活動にも積極的に顔を出し、瀬尾氏が経営する保険事業も軌道に乗った。2012年には2社目も起業。中古車販売や修理・整備から自動車リース・保険、レンタカーまで手がけるカーディーラー業に乗り出し、充実した30代を送った。
都城観光協会や都城JCでの責任も加速度的に大きくなる。4回目となる2009(平成21)年、都城焼肉カーニバルの副実行委員長を任され、その2年後、2011年にはついに実行委員長に就任した。そこから今に至るまで10年以上も実行委員長を続けている。
2015(平成27)年には、仲間に推され都城JCの52代目となる理事長に選出された。同年の焼肉カーニバルは開催から10回目を数える節目でもある。
瀬尾氏は、大きな賭けに出た。
宮崎県最大級の花火大会
じつは、2014年までの9回で焼肉カーニバルの夜に花火を打ち上げたのは2度だけ。初回は記念にと上げたが、瀬尾氏いわく「予算がとれず、ほんとにちょびっと。5分もなかったかもしれない」という規模だった。
5回目の2010(平成22)年は、高城地区の夏祭り「観音池まつり」の花火打ち上げ予算が回ってきたことから、焼肉カーニバルの夜に打ち上げた。
観音池まつりの舞台も観音池公園。毎年8月末の日曜に1000発程度の花火を上げることが恒例となっていたが、2010年は宮崎県内で流行した口蹄疫の影響で休止に。焼肉カーニバルは開催できたため、お鉢が回ってきたが、それを最後に焼肉カーニバルの夜空が花火で彩られることはなくなっていた。
「昔は都城にも大きな花火大会があったようで、それを堀之内前会長たちが企画していたという話を聞いていて。もうないんですけど、僕自身、花火が好きですし、やっぱりまたすごい花火大会を、今度は『音楽花火』を都城でやりたいという思いがずっとありました」
JC理事長就任と焼肉カーニバル10周年が重なった2015(平成27)年、瀬尾氏は「思い」を実現させるべく、4月から動いた。
目指すは、宮崎県内最大規模となる「1万発」で、音楽とシンクロする音楽花火。その規模になると、市からの支援がないと不可能だったが、「本当に安心安全に開催できるなら」という条件で市から許可を得た。
都城で行われる久々の大花火大会に向け、準備に奔走。その最中に“事件”が起きた。
10回目の焼肉カーニバル開催を約2カ月後に控えた2015年8月末の日曜、前出の観音池まつりが観音池公園で開催。その夜、ある畜産農家で子牛が亡くなった。花火の音に驚いた親牛に踏まれてしまったという。
そんな折、今度は10倍規模の1万発の花火が同じ場所で打ち上がり、大きな音楽も鳴ることを知った畜産農家が、都城焼肉カーニバルの花火を不安視し始めた。1万発の実現に向け、各種の契約を済ませ、警備体制も盤石にしつつあった矢先に、「農家さんが市役所への陳情も考えている」という話が、瀬尾氏の耳にも入ってきたのだ。
「ものすごい時間をかけて、ここまでやっときた。このチャンスをダメにはできん」――。
もともと焼肉カーニバルに長年、協力していたJA青年部が農家を集めて、話し合いの場が設けられた。そこに瀬尾氏はある“覚悟”をもって出向いた。
JA青年部と市畜産課の尽力
「最悪、なにかあったら僕が賠償しますという腹積もりでいました。農家の方々から『花火で子牛が死んだことがあって、そういった時にどうしてくれるの』みたいな話が出て。僕らも『引くに引けないし、やりたいです』と……」
「そんな話をしていた時、青年部の方が助け舟を出してくれて『彼らはボランティアで都城の畜産を発展させようと盛り上げてくれているんだよ』と言ってくださった。そこから、場の空気が本当にわかりやすく変わったんです」
結局、農家に瀬尾氏の携帯電話番号などを伝え、なにかあった場合に対処することを約束。開催する方向で話はまとまった。その後、池田市長の後押しもあり、市役所も開催に向けて協力。当日は、JA青年部と市畜産課の職員が手分けして十数箇所の農家に張りつき、万が一、親牛が暴れた際は即座に対処する連絡体制を敷いた。
かくして2015年10月、焼肉カーニバルの夜。初となる「肉と焼酎のふるさと・みやこんじょ花火大会」が盛大に同時開催され、1万発が夜空に散った。牛が暴れたという報告はなかった。
この時も「泣いた」と瀬尾氏は振り返る。
「花火が終わって、農家の方たちから『来年もがんばらんとね』と言っていただいて、みんなで泣いたのを覚えています。池田市長もすごく喜んでくださって、『いい肉で1万2900発にしよう』と言われて、翌年から1万2900発になったんです(笑)」
2016(平成28)年開催から花火は“増発”され、2019(令和元)年にかけて「焼肉と音楽花火のコラボレーション」はすっかりと定着。開催初年度、1万人だった来場者は、花火との相乗効果で3万人規模へと拡大した。
2020(令和2)年と翌21年は、コロナ禍の影響で休止を余儀なくされたが、2022(令和4)年に復活した際は反動もあってか、大混雑に見舞われた。
洗練された「オペレーション」
2022(令和4)年10月の焼肉カーニバル開催日、過去最大となる5万人が観音池公園に殺到した。出店では売り切れが続出し、花火が21時に終わると各方面へのシャトルバスの待機列が伸び続け、「最大2時間半待ち」もの長蛇となった。
最後のバスが会場を後にしたのが23時30分。すべての客を降ろし終えた頃には日付が変わっていた。周辺道路の渋滞がシャトルバスの行く手を阻み、ピストンのサイクルがどんどんと遅れていったことが原因だった。
そこで、翌2023年、焼肉カーニバルの実行委員会は警察との連携と交通規制を強化。盤石の体制で臨んだ。攻めの姿勢は崩さない。焼き場を前年の2500席から3200席に増席。来場者数は大混雑した前年並みの5万人となった。
それでも、周辺道路の封鎖や一方通行化、右折禁止といった措置が奏功し、22時30分にはすべての客を降ろし終えることに成功した。
そして17回目となる2024年。雨続きの天候で、当日も夜から天気が崩れたにもかかわらず、コロナ禍前を上回る3万6000人を動員。盛況に幕を閉じた。
数万人と聞くと驚くが、広大な敷地と膨大な席があるからか、それほど混雑は気にならなかった。飲料ブースでの購入や炭火交換などの対応もスムーズで、洗練された「オペレーション」を感じた。何年も改善を積み重ねてきた賜物だろう。
花火の時間が近づき、間近で観覧できる別の芝生エリアへの移動を促される。前日までの雨でぬかるんでいるところもあったが、導線にゴムシートを敷くなどの対策が講じられていた。
雨予報のため30分繰り上げで19時30分に花火が始まるとまもなく、小雨が降ってきた。だが、眼前の花火がそれを気にさせない。音楽とシンクロした圧巻のショーは1時間という時間を感じさせないまま、終了した。
20時30分の終了直後から、シャトルバスの待機列ができていたものの、都城駅方面は30分待ちほどで乗車できた。快適なハイデッカーに揺られ、22時前には駅着。満足度の高いイベントに酔いしれた1日だった。
「一瞬の出会いが一生を変えた」
観光需要の掘り起こしに地域活性。焼肉カーニバルは、計り知れない貢献を都城市にもたらす存在となった。堀之内前会長の熱意を継ぎ、ここまで巨大なイベントへと育んできた瀬尾氏は今、なにを思うのか。
「最初はなにをするかもわからんまま事務局にいて、会長も皆さんも『誰だこいつは』みたいに思っていたと思います。それで、一生懸命して、名前を覚えていただいて。今、思うんですけれど、一瞬の出会いが一生を変えたなって」
「いつも言っているんですけれど、あの2005年、2006年の出会いがなかったら、うちの会社はここまでなってないと思いますし、焼肉カーニバルの実行委員長やJCの理事長になることもなかった。花火もできなかった。本当に運が良かったんだと思います」
瀬尾氏は現状で満足しているわけではない。
「僕らがずっと言ってきたのは、まず安心安全な祭りであること。それから、来場者はもちろん、実行委員会やボランティア含め全員が楽しめるイベントであること。そして、常に前年よりも発展したイベントであることです。それらをコンセプトにやってきたからこそ、事故なく発展を続けてこられたんだと思います」
焼肉カーニバルは今後、どう発展していくのだろうか。
花火をアップグレード、会場変更も視野に
次回の2025(令和7)年は、開始から20周年の節目。都城市も「平成の大合併」による新市になって2025年で20周年を迎える。じつは2006年に行われた初回の焼肉カーニバルは、同年からの新市制を記念する意味合いもあった。20周年の並びは偶然ではない。
瀬尾氏は、10年前、花火大会を企画したように、「新たな企画の準備をすでに始めている」と明かす。
「詳しくは言えませんが、花火大会を大きくアップグレードさせたいと思い、いろいろと動き始めています。サプライズでプロポーズをするとか、個人による花火協賛を通じたドラマなんかも生まれたらうれしいですね」
そう話す瀬尾氏に、「次の10年は10万人を目指すとか、そういう考えはありますか?」と水を向けた。
「できれば目指したいんですけど、今の場所だとちょっと難しくて。観音池公園のキャパシティーを考えると、安全を確保する意味でも5万人で“頭打ち”なんですよね。その上を目指すのであれば、大淀川の河川敷などに場所を移動する必要があると思います」
「ただ、広大で綺麗な芝生で焼肉ができる場所は観音池公園だけですし、どっちを優先するのか。ずっと議論はしていますが、まだ結論には行きつかない感じです」
直ちに2025年から会場変更する可能性は「限りなくゼロに近い」が、将来的に変更され、より巨大な肉フェスへと進化する可能性は大いにある。
発展し続ける宿命を背負った都城焼肉カーニバルはどこまで成長するのだろうか。期待せざるを得ない。