深く多面的に、考える。

まちにたたずむ歴史 #03

まちに息づく石蔵・石垣を訪ねて “石”に宿る記憶をたどる

  • 溶結凝灰岩による古き「石蔵」や「石垣」が市内に数多く残されている。
  • 都城市地域プロジェクトマネージャーらが「石蔵・石垣マップ」を制作。
  • 石蔵・石垣の知見を深めることは、都城の歴史を知ることにもつながる。

市立図書館で石蔵・石垣のイベントが開催

2025年9月13日の土曜、処暑も過ぎたというのに暑さの収まる気配がないその日、都城市立図書館のなかも外に負けんばかりの熱気であふれていた。

2025年9月、都城市立図書館で「石蔵・石垣保存プロジェクト」のイベントが開催。「ブラタモリ」出演経験もある東川隆太郎氏が講師を務めた(都城商工会議所提供)

開催されていたのは「石蔵・石垣保存プロジェクト」のイベント第2弾。市内に現存する石蔵・石垣を通して「まちの魅力」を発掘する取り組みの一環で、「まち・音楽・記憶のひととき」と題されたこの日のイベントでは、石と文化財をテーマとした講演会のほか、音楽演奏や記録映像の上映会などが実施された。

石蔵・石垣の記録映像上映と東瑛子氏による音楽演奏も実施された(同上)

都城商工会議所まちづくり委員会が主催。講師は「特定非営利活動法人まちづくり地域フォーラム・かごしま探検の会」の東川隆太郎 代表理事が務めた。

図書館1階のホールに用意された数十席の椅子は、そのほとんどが埋まり、筆者を含む聴衆が東川氏のユーモアあふれる語り口に熱心に耳を傾けていた。

「まち・音楽・記憶のひととき」では街歩きも実施。都城市立図書館長の井上康志氏が案内し、30人ほどが参加した(同上)

今、都城で“石”が静かな盛り上がりを見せている。背景を追うと、あるマップの制作と、それを仕掛けたひとの存在があった。

「みやこのじょうまちなか石蔵・石垣マップ」

池田 浩二(いけだ・こうじ) 氏。一級建築士
都城高専卒業後、大手設計事務所で公共施設やオフィスなどの設計を担う。東日本大震災の復興事業やまちづくりの社会実験などにも携わり、2023年9月、「都城市地域プロジェクトマネージャー」に就任。まちなかの空間を利用したプロジェクトなど、高校生らとともにまちづくり活動を続ける。(池田浩二氏提供)

仕掛けたのは、都城市地域プロジェクトマネージャーの池田浩二氏。2023(令和5)年9月に同職に着任し、空き店舗対策などのハード面に加え、まちなかの賑わいを創出するソフト面での活性化にも取り組む。

そんな池田さんを中心に「石蔵・石垣保存プロジェクトチーム」が立ち上がり、「みやこのじょうまちなか石蔵・石垣マップ(以下、石蔵・石垣マップ)」が制作された。

「石蔵・石垣マップ」は、その名の通り中心市街地に残る石蔵や石垣についてまとめられたパンフレット。中心市街地のどこにどんな石蔵や石垣が残っているのかが一目で分かるようになっており、都城市立図書館などの公共施設で無料配布されている。

さらに、このマップの完成を機に、冒頭で紹介したようなさまざまなイベントも開催されている。

池田さんは、石蔵や石垣にフォーカスしたプロジェクトを立ち上げた理由についてこう語る。

「市民の皆さんがまちを回遊するきっかけとなり、まちづくりの一環になればと思って立ち上げました。私はまちの魅力や個性というのは歴史や文化のなかにあると考えていて、都城の魅力は何だろうと掘り下げていった時、石蔵や石垣の存在に着目したんです」

地域プロジェクトマネージャーに就任してすぐの頃、「街を歩いていると古い石蔵や石垣が多いことに気づいた」(池田さん)。さっそくマップを作ろうとあちこちに呼びかけたものの、なかなか協力者が見つからなかった。「確かにちょっと地味なテーマですからね」と池田さんは笑う。

そこを、都城商工会議所が拾い上げてくれた。都城商工会議所まちづくり委員会の森山芳太郎 委員長を始め、都城市立図書館や市役所などのメンバーから成るプロジェクトチームが発足。地質学を専門とする鹿児島大学の大木公彦 名誉教授などの協力も得て、2024年12月、石蔵・石垣マップが完成した。

“石”と都城のただならぬ関係

ここで、石蔵・石垣が作られた背景について解説しておこう。時代は江戸、現在の都城市街地の原型ともいえるかたちができた頃へとさかのぼる。

元和(げんな)元年(1615)、それまでの拠点であった「都城」が廃城となったため、都城領主北郷忠能は城を下り、盆地底の扇状地面に「領主館」と新しい「まち」の建設を始めました。これを「新地移り」といい、現在の市街地の基礎はこの時に造られたとされます。
最初は天神山(現在の旭丘神社)を中心に、東西約360メートル、南北約270メートル、約99,000平方メートルの広さの屋敷が造られましたが、明暦2年(1656)からは、現在の明道小学校校庭あたりへと中心部が移動し、市役所東館入り口付近に表門が造られていたと伝えられています。

(都城市公式ホームページ「都城の文化財 都城領主館跡」より)

領主館周辺には武家屋敷が広がっていたとされ、それに伴い屋敷を囲う石垣が多く作られた。明治から昭和初期にかけては石蔵も盛んに作られた。

実際の溶結凝灰岩

これらの石蔵や石垣には、火山の噴火から生まれた「溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)」が使用されている。これは、巨大噴火によって発生した火砕流と気体が堆積し、自らの重みと熱で圧縮されて硬く変化した岩石。南九州に広く分布し、他の岩石と比較して柔らかく加工しやすいため、薩摩藩の建築物に多く用いられた。

現代では再度作るのは難しく、当時の発達した石文化を伝える貴重なものである。

前出のかごしま探検の会・東川代表理事によると、島津本宗家・分家の墓石に良質な溶結凝灰岩が使われており、現存する日本最古の洋式石造工場である旧集成館機械工場(尚古集成館)にも、断熱性に優れていることからレンガの代わりに溶結凝灰岩が用いられているという。

日本最古の西洋式機械工場とされる「旧集成館機械工場」(鹿児島県観光サイト「かごしまの旅」より)

都城市街地では、「版籍奉還により領主がいなくなった明治以降、街の建造物に溶結凝灰岩が使用されるようになった」と東川代表理事。溶結凝灰岩の存在は都城や鹿児島に豊かな石文化をもたらした。

しかし、時代の流れや都市化とともに、溶結凝灰岩が使われた石蔵・石垣が徐々に失われつつあるのも現状だ。「『石蔵・石垣マップ』を通して市民の皆さんに価値や魅力を認識していただき、保存のきっかけになればという思いもある」と池田さんは願いを込める。

では、都城の石蔵や石垣に使われている溶結凝灰岩はどこからやってきたものなのか。

都城の石蔵や石垣に使用されている溶結凝灰岩の多くは、約33万年前に加久藤カルデラ(現在のえびの市辺り)から噴出した「加久藤火砕流」によるものと考えられている。長い年月を経て岩石となり、それを切り出して石蔵や石垣の建築材料として加工した。

一般的に石材は「石切り場」で切り出される。だが、具体的にどこなのか、実は都城においては不明な部分も多い。歴史文献にも明確な記録は残っていないという。そこで、池田さんはプロジェクトチームで独自に調査。場所が判明していなかった石切り場の一つを関之尾町で確認した。

池田さんがひとづてに聞いて回り、ようやく見つけたという関之尾の石切り場(都城商工会議所提供)

「昭和初期まで使われていたと聞いています。ちょうどその頃の石工さんのご子孫の方とお会いする機会があり、話を聞いたところ石切り場から荷馬車で石を運んでいたそうです。このほかにも安久川でも石切り場を見つけましたし、高崎町の観音瀬水路にもあります」

ここで石を切り出し、現場まで荷馬車で運んでいった(同上)

ちなみに、鹿児島大学の大木名誉教授によると、「関之尾町の石切り場で採れる石材は良質なもの」。市内に残る石蔵や石垣もここで採れた石材が多く使われていると考えられ、現在に至るまでまちの景観と歴史を守り続けている。

みやこのじょうまちなか石蔵・石垣マップ」で紹介されている表面仕上げの分類

そうした石蔵や石垣をよくよく観察してみると、その表面処理にも当時の石工たちの工夫が見てとれる。石蔵・石垣保存プロジェクトチームでは、石の表面仕上げを以下のように独自に6種類に分類・命名した。

さまざまな表面仕上げの方法が存在する背景には時代ごとの流行もあるだろうが、石工の技術力や技術の進化によるところも大きいと考えられる。

それでは、今もまちなかに残る実際の石蔵や石垣を訪ねてみよう。

「花商小倉石蔵」と「島津邸石蔵」

まずは、石蔵を見ていく。「石蔵・石垣マップ」に載っている4つの石蔵の一つでもある「花商小倉石蔵」を訪れた。

「花商小倉石蔵」。背後には日豊本線の高架が走る

八幡西交差点から西都城駅へと向かう細い道沿いにある。向かいにある総合花商小倉の所有する石蔵だ。

壁面には「バットレス(控え壁)」が配されており、石蔵本体の強度を高めているのはもちろん、レトロな雰囲気を醸し出している点が見どころだ。表面仕上げは「のみ切り」と「コブ出し」が採用され、端正な雰囲気を醸している。

石蔵にふさわしい堅牢なつくり

お次は「島津邸石蔵」へ。都城島津邸にある築95年を超える石蔵で、都城市の有形文化財にも指定されている。

「都城島津邸」の石蔵。2025年8月、「日本茶専門店 日向時間 島津邸石蔵カフェ店」がオープンした

2022(令和4)年の台風などで外壁漆喰が剥がれ落ちる被害を受けていたが、無事に修繕を完了。現在はカフェとして活用されている。

かつては民具や農作物が保管されており、昭和48(1973)年の昭和天皇皇后両陛下のご宿泊の際には警察官の詰め所として活用されたという。都城島津邸にふさわしい堂々とした佇まいが見どころだ。

表面仕上げが美しく、石工の優れた技術力がうかがえる

歴史を感じさせる石垣が立ち並ぶ

つづいて、石垣を訪ねた。まずは、西町の岳下橋たもと付近へ。

2022(令和4)年に国の有形文化財(建造物)に登録された旧江夏岩吉邸をぐるりと囲むように石垣が築かれている。南側は2m近くある立派な石垣で、重厚感を醸す外観が歴史を感じさせてくれる。

「旧江夏岩吉邸」を囲む石垣

表面仕上げは規則的なのみ跡が付いた「先のみ」で、向きを合わせて積まれており、丁寧な仕事ぶりがうかがえる。ヤマエ食品工業の前身会社を創業した江夏岩吉氏の邸宅を囲むにふさわしい格式高い石垣だ。

高さと重厚感に圧倒される

次は、姫城町の藤元総合病院近くの交差点角へ。マンション前に、立派な武家門と共に石垣が残っている。信号待ちで停車した際、気になっていた方も多いのではないだろうか。

市役所、つまり都城領主館跡に近く、かつて「老中馬場」と呼ばれた重臣の邸宅が並ぶ通り沿いにあることから、この石垣内に立派なお屋敷があったのではないかと推測される。

「姫城町」の石垣。領主館の出入口「東口番所」跡でもある

8段もの切石が積み上げられた高さのある石垣で、笠石も積まれている。表面仕上げは主に「のみ切り」が採用されているが、一部「有孔」もあり、見応えがある。

筆者としては、背後にそびえる近代的なマンションとのコントラストがいちばんの見どころ。過去と現代とが見事に交錯し、不思議な調和を保っている風景に、ほかにはないユニークさを感じる。

数百年を経てもなお堂々たる佇まい(上)。近づくと精緻な彫りが目を惹く。高い技術を持つ石工が手がけたのだろうか

次に、八幡町の丸田病院を囲むようにして築かれている石垣へ向かった。

「丸田病院」を囲む石垣。西都城駅ロータリーを出て南下したところに見えてくる

領主館の敷地内には乗馬の練習をするなどしていた「馬場」と呼ばれるエリアがあり、先述した「老中馬場」の他にも「桜馬場」「八幡馬場」「北口馬場」などがある。この石垣は「桜馬場」沿いに立っている。

表面仕上げは「のみ切り」で素朴な雰囲気を感じさせるが、整然と切石が積まれている様子からはどことなく品格が漂ってくるよう。高さはあまりなく、どっしりとした趣が感じられる。

今も現役で石垣の役目を果たしている

史跡付近の通り沿いに並ぶ石垣

ほかにもたくさんの石垣がまちなかには残されている。特に、領主館など史跡付近の通り沿いは複数の石垣が残っている場合が多い。

例えば、かつて領主館があった市役所の北東部に位置する「普請方(ふしんかた)小路」の両脇には、高さこそないが、立派な石垣が断続的に残っている。「普請方」とは土木・建築関係の工事を担当した部署のことで、江戸時代にはこの通りに普請方の役所が並んでいたという。

「普請方(ふしんかた)小路」周辺に残る石垣。上は「カレー倶楽部ルゥ」前。中は「普請方小路」標柱付近。植物に覆われている箇所もある(下)

また、東上町通りを東へ入っていったところにある「志和池殿小路(しわちどんこうじ)」周辺にも石垣がいくつも残っている。

志和池殿とは都城領主であった北郷家の一族で、この近辺に邸を構えていたことからこのような名前で呼ぶようになった。武家門も残り、当時の雰囲気を今に伝える。

「志和池殿小路(しわちどんこうじ)」周辺に残る石垣。上の石垣には「笠石」が乗り、格式高さが伺える。中はまちに溶け込んでおり、見過ごしてしまいそうになる石垣。ブロック塀と“融合”している石垣も見つけた(下)

「価値を知ってもらうことが保存活動の第一歩」

ここまで紹介した石蔵・石垣はほんの一部。「なぜこんなところに?」と思うような場所に残っていることもあり、その理由について想像を膨らませるのもまた楽しい。

「酒人肴 ひと麦」(上町)。古い石垣を活かした風情あるエントランス

しかし一方で、年々その姿が消えつつあるのも現状だ。池田さんの話では、この1年間でもいくつかの石垣がなくなってしまっているという。

「老朽化や相続の問題などを理由に解体されてしまう例が多くあります。特に石垣は、持ち主の方がその価値をご存知ない場合もあります。保存するのも大変ですし、そのコストは持ち主の方が負担しなければならないので、保存を無理強いすることもできません」

「私たちにできることは『石蔵・石垣マップ』などを通して歴史やストーリーを伝えていくこと。価値があるものだという認識を持ってもらえるようにすることが、保存への第一歩なのではないかと考えています。まずは知ってもらうことが大事。私たちも意識しなければその価値に気づかなかったのですから」

池田さんはさまざまなイベントなどを通じて石蔵・石垣の魅力を伝えている(都城商工会議所提供)

さまざまなイベントなどを通して、筆者のように市内に残る石蔵や石垣に興味を持つひとは確実に増えつつあるという手応えを感じているという池田さん。その取り組みは続く。

発展するプロジェクト、まち歩きNFT“QR探し”も

現在、「石蔵・石垣マップ」から発展させ、牟田町の天竜山攝護寺にかつてあったお堀を再生するプロジェクトに取り組んでいる。南九州大学の先生や学生らとともに、溶結凝灰岩を活用したものにしようと計画している。

2025年11月からは「みやこのじょう石蔵・石垣まち歩きNFT」という新しいイベントもスタートさせている。

「石蔵・石垣マップ」に掲載されている石蔵・石垣のどこかに設置されている二次元コード(QR)を見つけるまち歩きイベント。二次元コードを指定されたアプリで読み込み、条件達成によって特典の抽選を受けられる。

2026(令和8)年2月28日までの開催で、「まち歩きをもっと楽しく、特別な体験にしてほしい」という池田さんを始め、都城商工会議所まちづくり委員会の思いが込められている。「まずは、『石蔵・石垣マップ』を片手に街中を歩いてみてほしい。自然と都城の歴史が見えて、より街への愛着が湧いてくるはず」。

二次元コードを目印に街を歩こう

池田さんは「まちづくりに取り組む地域プロジェクトマネージャーという立場としては、ついでに街中でごはんを食べたり買い物をしたりしてもらえたらよりうれしいですね」と期待を込める。

また、「石蔵・石垣マップ」は、2026(令和8)年2月に新たなバージョンをリリース予定だという。新たなマップには、江戸時代末期の武家屋敷の分布も掲載される予定とのこと。石蔵・石垣巡りが、さらに楽しく興味深いものになるに違いない。

“石”から見える新しいまちの顔

かつての歴史を静かに伝え続ける石蔵や石垣。都城市の中心市街地は太平洋戦争で空襲の被害も受けており、それにより焼失したものも多いだろうと池田さんは指摘する。つまり、現存している石蔵や石垣は戦火を潜り抜けてなお残ったもの。改めてその貴重さを感じる。

こうした気づきや関心が積み重なることで、単なる「古い建造物」だった石蔵や石垣が、やがて「自分たちのまちの大切な一部」へと変わり、街への愛着がより深く、よりぬくもりのあるものになっていくのではないだろうか。

“石”という新たな側面から都城のまちを見直してみよう。きっと新しいまちの顔が見えてくる。

中心市街地だけでなく、その他の地域にも古い石蔵や石垣は存在する。ぜひいつも通っている道も注意深く観察してみてほしい。ただし、私有地にあるものも多いため、その際は勝手に立ち入るような行動は慎んでほしい。

そして、せっかく石蔵や石垣を訪ね歩くのなら、どんな表面仕上げの方法があるか知っておくと良い。ただ眺めるだけでなく、「なぜこの仕上げにしたのだろう」「どんな工具が使われたのだろうか」などと思いを馳せることができ、楽しみも増すだろう。石蔵や石垣に対する認識も単なる建造物から「ひとの営み」へと変化し、より理解や愛着が深まるはずだ。

  • 筆者
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三角園 泉

三角園 泉(みすみぞの・いずみ) 「Think都城」記者。宮崎県都城市在住。大学ではメディア論を学び、文学や音楽、お笑いなどのカルチャーに幅広く触れる。2017年よりライターとして活動。近年は採用系コンテンツや企業・団体の情報発信の取材・執筆、事業者の広報サポートなどに携わる。趣味は各地の田の神さぁを巡ること、街を歩くこと、短歌を詠むこと。ぼんちくん推し。

  1. まちに息づく石蔵・石垣を訪ねて “石”に宿る記憶をたどる

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