乙房神社境内の隅にたたずむ石像
都城志布志道路の乙房ICに向かう県道45号線を外れ、脇道を少し登っていった先にある乙房神社。高台にあって見晴らしがよく、眼下には乙房小学校、その先には乙房の街並み が広がり、遠くに霧島連山がそびえる。
こぢんまりとした境内は、厳かな神域というより、地域の日常に溶け込んだ素朴な神社という雰囲気。この境内の隅に静かにたたずむ「石像」が今回の主役のひとりである。

霧島山を背に佇む乙房神社の石像。彫りの美しさも魅力
どこかはにかんだような穏やかな笑顔に大きな耳、丸みのあるシルエット。右手にはメシゲ(しゃもじ)、左手にはお碗を持ち、頭には大きな「シキ(蒸し物をするときに釜とセイロのあいだに挟む藁製の編み物)」を被った姿がユーモラス! 見ているだけで思わずこちらも笑顔になり、今にも話しかけてくれそうな姿に、心がほどけるような感覚をおぼえる。
背中には「文政9(1826)年」という記銘。およそ200年もの間この地を見守ってきたのだと思うとその途方もない時間の長さに気が遠くなると同時に、当時の“都城人”の息づかいや祈りの深さを感じられるような気もする。
この石像は現代に残る「田の神様」の一つ。乙房神社に田の神様は2体鎮座するが、本殿向かって左手にたたずむほうが筆者のお気に入りだ。
都城市に住む筆者が田の神様に興味を持つようになったのは数年前。存在はもちろん知っていたが、県内では田の神様を観光資源として活用しているえびの市に主に分布しているものだとばかり思っていた。

メディアなどで紹介されることが多い、えびの市末永の田の神様
しかし、ひょんなことから、じつは都城市にも多く残っており、かつ自分の生活圏内にも決して少なくない数が存在していることを知り、がぜん好奇心を掻き立てられた。
市の文化財課によると、現在市内で確認されている田の神さぁは約180体。多くは農村部の田んぼや畑の片隅にたたずんでおり、ちょっと足を伸ばせばいろんな田の神さぁと出会うことができる。
そもそも田の神さぁとは一体なんなのか。魅力はどこにあるのか。
田の神さぁの起源と背景
田の神様とは、南九州で古くから祀られてきた五穀豊穣を願う田の神信仰の守護神。その多くが分布する鹿児島県や宮崎県の一部では、「田の神さぁ(タノカンサア)」と呼ばれ親しまれてきた。民俗資料や石像銘文、観光案内などでも「田の神さぁ」と記されることが多く、本稿でも以降、田の神さぁという表記で統一する。
都城市の歴史や文化を記録した「都城市史」に、次のような記述がある。
田の神信仰は全国的にみられるが、田の神石像は主に鹿児島藩内に限ってみられる鹿児島藩独特の文化である。この田の神石像は、地元では現在でも「タノカンサア(田の神様)」と呼ばれ、人びとに親しまれている。
(中略)都城の村々を歩いていると、田んぼの見える高台や田のかたわら、あるいは集落の脇に、高さ五〇cmから一mほどの丸彫り・浮き彫りの像をよく見かける。それはふつう屋根もなく、据えてあるという露座のままで立っていたり、座っていたり、あるいは踊っていたり、いろいろな形をしている。タノカンサアである。
(「都城市史 通史編中世近世 第2編近世編 第3章享保期以降の農政と藩政 第6節都城領に暮らす人びとの生活 2田の神信仰と農民文化」)
「田の神信仰」そのものは珍しいものではない。なにかを農耕神として祀る習俗は全国各地にある。しかし、自然石や巨木などを「依代(よりしろ=神霊が寄りつくものや場所)」とすることが多い。石像を田の神として建立する文化は独特と言える。
その文化は、「都城市史」にもあるように鹿児島藩を中心に根づいた。現在確認されている田の神石像は、3400体以上。ほとんどが鹿児島県(島嶼部を除く)と宮崎県の一部に分布し、数は少ないが隣接地域でも確認されている(宮崎市にも存在する)。

鮮やかな彩色の跡が残る「新田場の田の神さぁ」(小林市)
鹿児島県における最古の田の神さぁは、鹿児島県薩摩郡さつま町の「紫尾の田の神さぁ」と言われ、1705(宝永2)年の建立。宮崎県では、1720(享保5)年に建立された小林市の「新田場の田の神さぁ」が最も古いとされている。
都城市最古の田の神さぁは1724(享保9)年に作られた高崎町の「谷川田之神」。いずれも18世紀初頭のことであり、そこからじつに300年以上にわたって独特の信仰として受け継がれてきた。
18世紀から普及した背景には、旧薩摩藩による急速な新田開発と、それに伴う農民の生活事情がある。当時、農民は厳しく年貢を取り立てられており、安定した収穫が得られるよう五穀豊穣を願って田の神さぁの像が作成されたのではないか と考えられている。
ユーモラスな顔、仕草を表現しているものが多いのは、苦しい生活の中で少しでも楽しさや笑いを見出したかったからなのかもしれないと筆者は考える。
南九州地域には、約34万年前に噴出した加久藤火砕流による溶結凝灰岩が豊富に存在する。石材として加工しやすかったこと、そして優秀な石工が多かったことも背景として挙げられる。
説明はこの辺にして、ここからは「魅力」を伝えたい。
「神像系」「仏像系」「農民型その他」などに大別
田の神さぁの魅力は、なんといってもその個性豊かな「いでたち」。研究者らによる分類の仕方はさまざまだが、ここでは八木幸夫著『田の神石像、誕生のルーツを探る 仏像系、神像系、その他の分類と作製年代を考察する』を参考に、「神像系」「仏像系」「農民型その他」をピックアップして紹介したい。
新燃岳の大噴火からの復興のシンボルとして作製された田の神さぁ。昔の貴族が着用した礼装の衣冠束帯姿の「神像型」や、神職が神舞(カンメ)を舞っている姿の「神舞神職型」、「神職型」、「田の神舞神職型」などに分類される。

「谷川の田の神さぁ」(高崎町)は市指定有形文化
神像系「神像型」は宮崎県が発祥とされ、特に小林市で多く確認されている。
先述した、宮崎県で最古の田の神さぁである小林市の「新田場の田の神さぁ」もまさに神像型だ。
先に述べた都城市で最古の田の神さぁ「谷川田之神(谷川の田の神さぁ)」も「神像型」であり、高崎町にある。

大きなトーチカの上に鎮座している「母智丘の田の神さぁ」(都城市横市町)
母智丘の桜並木を少し横道に逸れたところに祀られている「母智丘の田の神さぁ」は「田の神舞神職型」だ。
袖の大きな上衣と袴姿で、静かに舞を舞っているように見える。
また、田の神さぁは背後から見ると男性器をかたどっているものも多く、「母智丘の田の神さぁ」もその一つ。
民間信仰において男性器が祀られることはめずらしくなく、田の神像においても多産や豊穣などを祈願したものと言える。
発祥は薩摩地方といわれ、宮崎県よりも鹿児島県に多い田の神さぁ。霊山の紫尾山を中心とした山岳仏教を背景として作製された。

鮮やかなベンガラの朱が目を惹く「仲間の田の神さぁ」(小林市)
仏像系は、さらに「仏像型・地蔵型」や「僧型」「旅僧型」などに分類され、小林市の「仲間の田の神さぁ」は旅僧型の一種である「僧衣立像型」として知られている。
唐獅子彫刻の台座の上に法衣をまとって立ち、蓮の葉をかたどった冠をかぶっている非常に珍しいタイプだ。
「神像系」にも「仏像系」にも分類されない田の神さぁ。シキをかぶり、碗やメシゲなどを持ち、長袖上衣の襦袢に袴や股引きなどを着用した「農民型」は、宮崎・鹿児島の広い地域で見られる。

「高岡型農民型」の「糸川の田の神さぁ」(宮崎市)
なかでも、大きな笠状のシキを被ってメシゲと碗を持ち、着物に袴姿のいでたちの田の神さぁを「都城型農民型」と呼ぶ。冒頭で紹介した「乙房の田の神さぁ」もまさに「都城型農民型」である。どことなく朗らかな雰囲気が感じられるのも特徴だ。
また、大きなシキを頭の後ろ側にずらして被り、着物と袴を身に着け、中腰で少し前屈みになった田の神さぁは「高岡型農民型」である。
その他にも「女性像型」や「夫婦像型」、「自然石・自然石文字彫型」などユニークな型の田の神さぁが「農民型その他」に分類される。
以上、3つの分類、それぞれの特徴を紹介した。ただし、研究者によって名称や分類方法は異なる部分も多い。
たとえ同じ型であっても、それぞれ個性があふれており、一見で同じ型だと判断するのは困難なほど。収穫祭などでおしろいや墨、ベンガラと呼ばれる赤い顔料で化粧をされることもあり、同じ田の神さぁでも変化する。
それでは、具体的にどんな田の神さぁがいるのか、ユニークな“みやこんじょの田の神さぁたち”に会いに行ってみよう。
「石山萩原」と「大牟田牟礼水流」の田の神さぁ

「石山萩原の田の神さぁ」<1847(弘化4)年頃・都城型農民型>
まずは、都城型農民型に分類される「石山萩原の田の神さぁ」を訪れた。
高城町石山萩原の水田脇に鎮座し、視線は霧島山の方角を向いている。着物に袴、大きなシキをかぶってメシゲとお碗を持った姿は、都城型農民型そのもの。膝から下がなく、台座に固定されている。
顔とメシゲ、お腕は白色に、衣服はベンガラのように赤い色でペンキを用いて彩色されており、田園でひときわ目を惹く。

視線の先には霧島山と大淀川
じつはこの田の神さぁ、テレビアニメ「サザエさん」に出演した経験を持つ。2015(平成27)年10月から12月までのオープニングで都城市の観光地などが紹介され、その中でアニメ映像として描かれ、見事サザエさんとの共演を果たした。素朴でユニークなたたずまいは、きっとサザエさん一家をも魅了したに違いない。
お次は、目の前に稲穂の海が広がる「大牟田牟礼水流の田の神さぁ」。神像系の「神像型座像」に属する。

田畑を見下ろす「大牟田牟礼水流の田の神さぁ」<1758(宝暦8)年・神像型座像>
高崎町の大牟田牟礼水流の道路脇の高台から田畑を見下ろすように鎮座。烏帽子を被り、狩衣をまとった衣冠束帯の田の神さぁ。両手は輪組みされ、祭りの際などにシャクを差し込めるように中央には孔が開けてある。

キリッとした眉毛が印象深い
ペンキで赤と白に彩色された華やかな姿で、凛々しい表情が頼もしい。恰幅の良い、非常に角ばった体形が堂々とした雰囲気を醸している。
墓地の一角にあるためか、墓参りに来た人たちによると思われるジュースやアルコール類がいつもお供えしてある。周辺にゴミなどが落ちていることもなく、今も地域の方々から大事にされていることが見てとれる。
「縄瀬横谷」と「上東」の田の神さぁ
高崎町の縄瀬保育園西側で、道路に背を向けて座っているのは「縄瀬横谷の田の神さぁ」。頭部がつけ替えられた珍しい一体で、こちらも神像系の「神像型座像」だ。

頭部を改作された「縄瀬横谷の田の神さぁ」<1809(文化6)年・神像型座像>
狩衣をまとい、両手は輪組みし、孔が作られている。体部分にはうっすらと赤い色が残っているようにも見える。かつてベンガラで彩色されていた名残だろうか。
特徴的なのが頭の部分。改作され、あとにつけ替えられたとみられる。ずいぶんと釣り上がった眉にへの字に曲がった口が、ユーモラスさが持ち味の田の神さぁらしからぬ不穏さを醸し出している。

首元にはつけ替えた際の跡が残る
田の神像の中には、明治時代初期の「廃仏毀釈」の影響で、頭を落とされて“打首”となったりバラバラに壊されたりと憂き目にあったものも少なくないという。この縄瀬横谷の田の神さぁが廃仏毀釈による影響を受けたかどうかは不明だが、都城市内にも頭部を欠損するなどした田の神さぁは少なくない。
まちなかでも田の神さぁと出会うことができる。上東児童公園内の片隅にたたずんでいるのが「上東の田の神さぁ」だ。

大黒様と融合「上東の田の神さぁ」<昭和7(1932)年?・大黒天型>
頭巾を被った頭にふくよかな福耳、ほころんだ笑顔……。パッと見は七福神の一柱である大黒様だが、その手にメシゲを持ち、肩には稲穂をかけている。
建立は1932(昭和7)年と推測され、かなり新しいが、大黒様と田の神さぁが融合した仏像系の「大黒天型」に分類されるれっきとした田の神さぁだ。

豪快な笑顔はまさに大黒様。背中には豊かな稲穂が垂れる
「大黒天型」はあまり数は多くないものの、小林市や国富町、鹿児島県伊佐市や薩摩川内市などに存在し、それぞれに個性豊かな表情を見せてくれる。
最後に紹介しておきたいのは、貴重な石仏群が遺る梅北町・西生寺霊園跡の「西生寺の田の神さぁ」だ。

田の神舞を踊る「西生寺の田の神さぁ」<年代不明・田の神舞神職型>
廃仏毀釈によって廃寺となった西生寺跡から北北西に約500m離れた場所に鎮座。「田の神舞」を踊る神職のいでたちを表現した神像系「田の神舞神職型」に分類される。
シキを被った袴姿で、中腰のまま袖をひるがえらせ右足を力強く前に出している姿は、今にも動き出しそうな雰囲気を醸し出している。ずいぶんと風化しているが、石像としても優れた作品だと言えるのではないだろうか。

ずいぶんと風化が進み、表情は読み取りにくい
ここまで、ずいぶんと多種多様な田の神さぁがそこかしこに存在することがわかっていただけただろう。一体一体が異なる個性や物語を持ち、ユーモラスな姿の田の神さぁは、見れば見るほどに愛らしく、魅力にあふれている。ぜひ、あなたもお気に入りの田の神さぁを探しに出かけてみてほしい。
ちなみに、田の神さぁは狭い農道脇などに鎮座していることが多いため、車で訪れる際には農家の方を優先するなど交通ルールには十分に気をつけてほしい。また、地域にとって大切な神様であるため、敬意を払って見学してもらいたい。こんなところにこんな田の神さぁがいたのか!と各地をめぐるだけでも楽しいはずだ。
田の神さぁにまつわるエピソードや風習もまたおもしろい。次回は、風習や文化について深掘りしていく。
参考文献:
青山幹雄『宮崎の田の神像』
八木幸夫『田の神のすべてが分かる本 田の神サァガイドブック』
八木幸夫『田の神石像、誕生のルーツを探る 仏像形、神像系、その他の分類と作製年代を考察する』
『都城市史 通史編 中世近世』
『都城市史 別編 民俗文化財』
小林市教育委員会『小林市の田の神さあ』
えびの市歴史民俗資料館『田の神さぁ』
宮崎県季刊誌Jaja VOL.13『特集:田の神さあをめぐる』
取材協力:
都城市文化財課