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	<title>まちにたたずむ歴史 - Think都城</title>
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	<description>深く多面的に、考える。</description>
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	<title>まちにたたずむ歴史 - Think都城</title>
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		<title>教科書に載らない「暮らしに潜む史跡」 廃線跡・橋りょう・用水路が物語る歴史</title>
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		<dc:creator><![CDATA[三角園 泉]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 02 Feb 2026 03:00:15 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[まちにたたずむ歴史]]></category>
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					<description><![CDATA[<ul>
<li>ぶつ切りにされた鉄道高架の断面に、大正ロマンを感じる橋脚。</li>
<li>暮らしには今も都城の歴史を物語る史跡が数多く潜んでいる。</li>
<li>都城というまちをかたちづくってきた確かな記憶をたどった。</li>
</ul>
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										<content:encoded><![CDATA[<h2>宙に浮くコンクリートの塊</h2>
<p>西都城駅近くの細い道を歩いていると、宙に浮いた巨大なコンクリートの塊が視界の隅に映り込んだ。非日常な光景に一瞬たじろぎ、目を向けてみる。するとそれは、ぶつ切りにされた鉄道高架の断面だった。</p>

<div id="attachment_12945" style="width: 740px" class="wp-caption aligncenter"><img fetchpriority="high" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12945" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Shibushi04.jpg" alt="" width="740" height="417" class="wp-image-12945" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Shibushi04.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Shibushi04-768x432.jpg 768w" sizes="(max-width: 740px) 100vw, 740px" /><p id="caption-attachment-12945" class="wp-caption-text">住宅街に突如現れた鉄道高架の断面</p></div>

<p>しばらく考えたのちに、思い当たったのが1987（昭和62）年に廃線となった「志布志線」の存在。1981（昭和56）年生まれの筆者にはあまりなじみがないものの、かつて志布志まで鉄道が走っていたという情報が頭の片隅にあった。</p>
<p>調べてみたところ、宙に浮いたコンクリートの塊は旧・志布志線の高架が撤去されたあとの一部だということがわかった。</p>
<p>こんな具合で、私たちの暮らしのなか、すぐあしもとにも都城の歴史を物語るあらゆる史跡が潜んでいる。裏側をのぞくと時代の足跡が無数に刻まれており、当時の人々の営みが目に見えてくるようだ。</p>
<p>それらは必ずしも文化財に指定されるような、あるいは教科書に載るような重要度・注目度の高いものではないかもしれない。しかし、都城というまちを確かにかたちづくってきた存在であることに違いはない。</p>
<p>そんな「暮らしに“潜む”史跡」をたどってみた。</p>
<h2>志布志線廃線跡に残る記憶</h2>
<p>冒頭の旧・志布志線の高架跡に戻ろう。西都城駅から伸びた高架は途中で日豊本線と分岐し、その先で志布志線の高架が唐突に途切れている。</p>

<div id="attachment_12946" style="width: 740px" class="wp-caption aligncenter"><img decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12946" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Shibushi05.jpg" alt="" width="740" height="417" class="wp-image-12946" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Shibushi05.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Shibushi05-768x432.jpg 768w" sizes="(max-width: 740px) 100vw, 740px" /><p id="caption-attachment-12946" class="wp-caption-text">日豊本線と旧・志布志線の分岐点</p></div>

<p>普段は目にすることのない高架の断面が、住宅街に無造作に顔を出している様子に思わず釘付けになるが、風景に溶け込んでいるようにも見えるから不思議だ。</p>
<p>ここで、旧・志布志線について少し説明したい。1923（大正12）年に、都城〜末吉間で開業。その後延伸し、1925（大正14）年に志布志駅まで結んだ。その10年前には宮崎線（現、吉都線）が開通していたこともあり、志布志線の開通は都城の発展に大きく貢献した。</p>
<blockquote>
<p>都城駅は大正二年一〇月八日営業が開始され、都城は吉松経由の鉄道で全国と結ばれたのであった。このあと間もなく志布志線の工事も始まり、同一二年一月一四日には西都城、今町、末吉の各駅が営業を開始し、同一四年三月三〇日には志布志まで開通した。こうして都城町は交通の要所となり、物資の集産地として急速に発展していくことになった。</p>
<div class="ta_right">（『都城市史 通史編 近現代 第2節　諸産業の発展と交通網の整備』より）</div>
</blockquote>
<p>じつは、志布志線は開業当時から高架線だったわけではない。もともと日豊本線とともに市街地を走っていたが、まちを分断し、交通事故が絶えないという理由を背景に、1979（昭和54）年に高架化された。しかし、そのわずか8年後、廃線となってしまう。</p>
<blockquote>
<p>国鉄は志布志線の廃止を運輸大臣に申請、志布志線沿線の自治体は、志布志線・大隅線廃止反対の総決起大会を開催するなど反対運動を展開したが、国鉄の分割民営化に先立ち昭和六二年三月一七日廃止され、大正一四年（一九二五）開通以来の歴史の幕を閉じた。</p>
<div class="ta_right">（『都城市史 通史編 近現代 第3節 二〇万年を目指して』より）</div>
</blockquote>
<p>かつては急行列車も走り、地域の足として活躍していた志布志線だったが、「国鉄民営化」という時代の波には逆らえなかった。都城はもちろん、沿線の鹿児島のまちでも反対運動が起こり、不安や憤りの声が聞かれたというが、その甲斐なく志布志線は全面廃止となった。</p>
<p>ただし、廃線跡の路面を整備した「志布志ウエルネスロード」には、今も当時をしのばせる史跡がそこかしこに残されている。</p>

<div id="attachment_12950" style="width: 740px" class="wp-caption aligncenter"><img decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12950" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Shibushi06.jpg" alt="" width="740" height="417" class="wp-image-12950" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Shibushi06.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Shibushi06-768x432.jpg 768w" sizes="(max-width: 740px) 100vw, 740px" /><p id="caption-attachment-12950" class="wp-caption-text">志布志ウエルネスロードの起点付近に架かる「高千穂橋」</p></div>

<p>スタート地点の鉄道記念公園（甲斐元町）から歩き始めてすぐの地点にある、萩原川に架かる「高千穂橋」。ここは、かつて鉄道が走る跨川橋があった場所だ。</p>
<p>コースの途中には、埋設標識杭も残っている。地下に通信ケーブルなどが埋設されていることを示しているのだろう。</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Shibushi07.jpg" alt="" width="600" height="338" class="aligncenter wp-image-12951" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Shibushi07.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Shibushi07-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /></p>

<div id="attachment_12952" style="width: 600px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12952" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Shibushi08.jpg" alt="" width="600" height="338" class="wp-image-12952" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Shibushi08.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Shibushi08-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /><p id="caption-attachment-12952" class="wp-caption-text">高千穂橋の土台に残された橋歴板（上）と、コースに添うようにいくつも残されていた埋設標識杭（下）。鉄道が走っていた時代をしのばせる</p></div>

<p>西都城駅から4キロメートル（km）の場所には、「今町駅跡」があり、こちらも鉄道記念公園として整備されている。</p>
<p>C1264号機関車が保存展示されているほか、一部の線路やプラットフォームが残されており、ひっそりと時を留めているようだ。</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Shibushi02.jpg" alt="" width="740" height="417" class="aligncenter wp-image-12943" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Shibushi02.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Shibushi02-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 740px) 100vw, 740px" /></p>

<div id="attachment_12942" style="width: 740px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12942" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Shibushi01.jpg" alt="" width="740" height="417" class="wp-image-12942" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Shibushi01.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Shibushi01-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 740px) 100vw, 740px" /><p id="caption-attachment-12942" class="wp-caption-text">「今町駅」跡には線路やプラットフォームなどの一部が残されている</p></div>

<p>志布志線は廃線となってしまったが、吉都線や日豊本線は今も力強い走行音をまちに響かせている。なかでも吉都線は見どころが多い。時代の面影をたどってみよう。</p>
<h2>レトロな表情を見せる橋</h2>
<p>市のホームページには、こんな歴史の記述がある。</p>
<blockquote>
<p>明治22年に九州で初めて鉄道が開業した後、明治29年11月に人吉〜吉松間が開通しました。</p>
<p>当時、鹿児島本線の駅であった吉松駅から分岐して、吉松～小林町(現在の小林市)間が宮崎線として大正元年に開通し、翌年の大正2年10月8日、現在の吉都線の区間である都城駅まで全長61.6キロが開通しました。</p>
<p>宮崎線はさらに宮崎、重岡方面へ延伸されて豊洲本線とつながり、日豊本線となりました。その後、昭和7年に都城〜隼人間が開通し、小倉〜都城～隼人～鹿児島が日豊本線、吉松〜都城間が吉都線となりました。</p>
<p>（都城市ホームページ『JR吉都線の歴史と駅を紹介します』）</p>
</blockquote>
<p>ちなみに、当初は都城を迂回するルートで検討されていたというが、当時都城には陸軍の歩兵第64連隊の設置が決まっており、兵力の移動や軍需品の輸送の関係上、軍事的な重要性が高かったことなどから、都城を通過することが決まった（『都城市史 通史編 近現代 第6章 都城の産業と経済』より）。</p>
<p>都城の発展を語る上で、「軍都」としての歴史は避けて通れないということがよく伝わってくる。</p>
<p>さて、現代に戻ろう。1913（大正2）年に全線が開通し、110年以上の歴史を誇る吉都線。今も当時の痕跡を色濃く残している箇所がある。</p>

<div id="attachment_12959" style="width: 740px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12959" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Bridge01.jpg" alt="" width="740" height="417" class="wp-image-12959" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Bridge01.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Bridge01-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 740px) 100vw, 740px" /><p id="caption-attachment-12959" class="wp-caption-text">庄内川に架かる橋りょう</p></div>

<p>乙房町と菓子野町のちょうど境界のあたり。庄内川に架かる橋りょうは、3脚のうち1脚がレンガ・石積みの橋脚となっている。国内では、明治時代から大正時代にかけて鉄道網の発展にともなって、石やレンガを材料とするトンネルや橋りょうの構造物が作られたという。</p>
<p>レンガ積みの部分を両脇から石積みで支えるような構造となっており、重厚で趣深い。どっしりとした風格も感じられ、離れた距離からでも思わず圧倒されそうになる。</p>

<div id="attachment_12960" style="width: 600px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12960" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Bridge02.jpg" alt="" width="600" height="338" class="wp-image-12960" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Bridge02.jpg 1200w, https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Bridge02-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /><p id="caption-attachment-12960" class="wp-caption-text">橋りょうたもとの橋台もレンガで造られている</p></div>

<p>たもとの橋台もレンガで造られており、堅牢かつレトロな表情を見せてくれる。</p>
<p>庄内川から400メートル（m）ほど南下したところにある乙房避溢橋（ひいつきょう・川がない場所に設けられた橋）の橋脚も、庄内川橋りょうと同じような構造だ。庄内川橋りょうに比べて大きさや高さこそ及ばないものの、ずんぐりとしたたたずまいから力強さが感じられる。</p>

<div id="attachment_12961" style="width: 600px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12961" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Bridge03.jpg" alt="" width="600" height="338" class="wp-image-12961" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Bridge03.jpg 1200w, https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Bridge03-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /><p id="caption-attachment-12961" class="wp-caption-text">どっしりとした乙房避溢橋の橋脚</p></div>

<p>中央部分はコンクリート造で、その周囲をレンガと石で支えているようだ。コンクリート造の形状に沿って、切石がじつに美しいアールを描いている。</p>
<p>また、庄内川橋りょうの北側には吉都線の線路下にレンガ暗渠（あんきょ）が設けられ、水が流れている。目立たない場所にあるため思わず通り過ぎてしまいそうになるが、楕円を描いたアーチはしっかりと吉都線を支えている。</p>

<div id="attachment_12962" style="width: 600px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12962" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Bridge04.jpg" alt="" width="600" height="338" class="wp-image-12962" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Bridge04.jpg 1200w, https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Bridge04-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /><p id="caption-attachment-12962" class="wp-caption-text">吉都線の線路下で静かに口を開くレンガ暗渠</p></div>

<p>建造から長い年月を経ているにもかかわらず、今も健全な姿で活躍していることには驚くほかない。そしてそれ以上に、令和の時代を走り抜けるあしもとに、いまだ鉄道黎明期の香りが色濃く残っているということに、熱いロマンを感じる方も多いのではないだろうか。</p>
<h2>都島公園に立つ門柱の正体</h2>
<p>多くの市民でにぎわう公園にも、歴史を物語る史跡が暮らしに溶け込み、潜んでいる。</p>
<p>都島公園（都島町）の入り口に立つ4本の門柱。いずれも石造りで、高さが2メートル近くある。地域の公園の門にしてはいささか重厚で風格があるものの、何の変哲もない門柱のようにも見える。</p>

<div id="attachment_12964" style="width: 740px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12964" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Bridge05.jpg" alt="" width="740" height="417" class="wp-image-12964" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Bridge05.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Bridge05-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 740px) 100vw, 740px" /><p id="caption-attachment-12964" class="wp-caption-text">都島公園入り口に立つ重厚な門柱</p></div>

<p>よく見ると「嶽下橋」の文字。どうやら、もとは門ではなく、橋の「親柱（おやばしら・橋の四隅にある柱）」のようだ。</p>
<p>「昭和八年三月架設」とも記されている。「嶽下橋」ということは、現在の「竹之下橋」と関連が深そうである。実際、都島公園から竹之下橋までは、350メートルほどの距離しかない。</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Bridge06.jpg" alt="" width="600" height="338" class="aligncenter wp-image-12965" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Bridge06.jpg 1200w, https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Bridge06-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /></p>

<div id="attachment_12966" style="width: 600px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12966" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Bridge07.jpg" alt="" width="600" height="338" class="wp-image-12966" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Bridge07.jpg 1200w, https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Bridge07-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /><p id="caption-attachment-12966" class="wp-caption-text">「嶽下橋」と記された橋名板（上）。別の門柱には「昭和8年」の文字（下）。1933（昭和8）年は日本が国際連盟を脱退した年でもある</p></div>

<p>市の道路公園課に問い合わせてみると、設置の経緯などに関する記録は残っていないとのこと。そこで、竹之下橋の記録をさかのぼってみた。</p>
<p>江戸時代において竹之下橋には、宮崎市の赤江港へと続く水運の拠点として、数多くの川舟が集まった。その背景にあるのが、第22代都城領主島津久倫（ひさとも）によって行われた、当時巨大な岩が林立する激流だった高城町有水の「観音瀬」の開削。工事は1794（寛政6）年に無事完了し、竹之下橋からの通船事業が開始されることとなった。</p>

<div id="attachment_12967" style="width: 600px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12967" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Bridge08.jpg" alt="" width="600" height="338" class="wp-image-12967" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Bridge08.jpg 1200w, https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Bridge08-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /><p id="caption-attachment-12967" class="wp-caption-text">現在の「観音瀬」</p></div>

<p>その後、明治時代に入って石橋に架け替えられ、1979（昭和54）年に現在の竹之下橋になったという。</p>
<blockquote>
<p>四か年の歳月をかけて、ついに明治一七（一八八四）年一一月に長さは三四間、幅二・三間の石眼鏡橋が完成した。当時の橘橋（宮崎市）は木橋であったので、この橋は県内最大の石橋だった。</p>
<p>（『都城市史 通史編 近現代 第3章 明治前期の経済と社会』）</p>
</blockquote>
<blockquote>
<p>上流にはかつて都之城（今の歴史資料館）が築かれ、重要な橋であった。当初は渡し場があり、広い川原は縁日に市が立ち賑わったという。（中略）江戸時代の木橋は現在の位置より約90ｍ上流にあった。明治時代に現在の場所に石橋が架けられた。（中略）現在の橋は昭和54年（1979）に架け替えられたもので、橋の中央部が丸くなったアーチ状の橋である。</p>
<p>（大淀川流域地名いわれ事典「竹之下橋」）</p>
</blockquote>
<p>推測するに、都島公園入り口にある門は、1933（昭和8）年に架けられた竹之下橋の親柱で、1979（昭和54）年の架け替え工事の際に移築されたのではないだろうか。都島公園そのものも、1980（昭和55）年に整備されており（『都城市史 通史編 近現代 第14章 戦後の都城』より）、タイミングもちょうど良い。</p>

<div id="attachment_12968" style="width: 740px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12968" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Bridge09.jpg" alt="" width="740" height="417" class="wp-image-12968" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Bridge09.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Bridge09-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 740px) 100vw, 740px" /><p id="caption-attachment-12968" class="wp-caption-text">現在の「竹之下橋」</p></div>

<p>都城の発展に大きな役割を果たしてきた歴代の竹之下橋。その功績を称え、架け替えの際に親柱を残しておこうという思いが関係者のなかにあったのだろうか。あるいは、都島公園は旧陸軍墓地であることから、都城空襲で焼け落ちることなく、太平洋戦争を乗り越えた竹之下橋の記憶を残しておこうという意味合いもあったのかもしれない。</p>
<p>多くの市民が行き交う公園の片隅に、江戸から現代までの記憶が、ひっそりと、しかし確かに刻み込まれているのである。</p>
<h2>米づくりを支えた「高木原用水路」の痕跡</h2>
<p>国道10号を市中心部から宮崎市方面へと走り、沖水川を渡って都北町を抜けた先の国道両側一帯は「高木原（たかぎばる）」と呼ばれる。</p>

<div id="attachment_12970" style="width: 740px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12970" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Tunnel01.jpg" alt="" width="740" height="417" class="wp-image-12970" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Tunnel01.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Tunnel01-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 740px) 100vw, 740px" /><p id="caption-attachment-12970" class="wp-caption-text">高木原の向こうに霧島連山をのぞむ<span>（都城市提供）</span></p></div>

<p>広い平地に田畑が広がり、米づくりが盛んな地域。秋には田んぼに稲穂が揺れ、農作物の収穫風景を見ることができる。車を走らせながら、左右に広がる田畑の緑に心が癒されると感じる市民も多いのではないだろうか。</p>
<p>しかし、かつての高木原に広がっていたのは、全く違う風景だった。</p>
<blockquote>
<p>高木原は沖水川の扇状地の扇央に当たり、砂利層が厚く水に乏しいため開田が困難であった。当時の高木原は原野と山林（松林）が多く、人々は大淀川流域に水田を少しばかり作り家の周囲の畑から取れる粟や甘薯を常食としていて暮らしぶりは貧しかった。</p>
<p>（『もろかた第35号 「高木原緑道」と高木原用水路 山下節子）</p>
</blockquote>
<p>そんな状況を受け、1912（大正元）年、時の宮崎県知事有吉忠一は、高木原の開田を県の事業として進めることを決めた。水源を今町有里付近の大淀川とし、市街地の東部を通り、沖水川の川底を抜けて高木原へ水を引くという一大プロジェクトである。</p>
<p>「高木原用水路」と名づけられた用水路の全長は約14.3kmにもおよび、農業用用水路としては異例の長さだったという。途方もない計画だったが、1914（大正3）年に着工。事業費は総額21万6000円（現在の金額で7億7000万円）にものぼる大工事だった。</p>
<p>もちろん当時は重機などはなく、大変な難工事となったが、紆余曲折を経て「高木原用水路」が完成。少しずつ田畑は増え、1986（昭和61）年にその使命を終えるまで大地と人々の暮らしを潤した。鹿児島県との県境近く、今町有里の取水口付近には、当時をしのばせる痕跡が残っている。</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Tunnel02.jpg" alt="" width="600" height="338" class="aligncenter wp-image-12971" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Tunnel02.jpg 1200w, https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Tunnel02-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /></p>

<div id="attachment_12972" style="width: 600px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12972" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Tunnel03.jpg" alt="" width="600" height="338" class="wp-image-12972" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Tunnel03.jpg 1200w, https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Tunnel03-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /><p id="caption-attachment-12972" class="wp-caption-text">ずいぶんと錆びてしまっていた水門を開閉するハンドル（上）。「高木原用水路（下）」は子どもたちの遊び場でもあったという</p></div>

<p>水門を開閉するハンドルのすぐ近くに水源となる大淀川が流れている。枯れ草で覆われていて確認しづらかったが、下には水門も残されているようだった。</p>
<p>用水路にも雑草と枯れ草が生い茂っていたため、確認しづらい箇所が多かったが、水が流れている箇所もあった。</p>
<p>取水口から300メートルほど歩くと、「ずい道（トンネル）」も残されている。コンクリートとレンガで造られており、今もその役割を果たしている。</p>

<div id="attachment_12973" style="width: 740px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12973" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Tunnel04.jpg" alt="" width="740" height="417" class="wp-image-12973" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Tunnel04.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Tunnel04-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 740px) 100vw, 740px" /><p id="caption-attachment-12973" class="wp-caption-text">用水路に残るずい道</p></div>

<p>また、用水路跡地の沖水川から萩原川までの5.9キロメートルは高木原緑道として整備されている。沖水川土手近くを始点とするウォーキングコースで市民の憩いの場であると同時に、ところどころにかつての記憶が残されている。始点には高木原用水路の案内板や記念碑が並ぶ。</p>
<p>都城泉ケ丘高校近くの「高木原の広場」には、復元されたずい道も設置されている。</p>

<div id="attachment_12975" style="width: 740px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12975" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Tunnel06.jpg" alt="" width="740" height="417" class="wp-image-12975" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Tunnel06.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2026/01/History05_Tunnel06-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 740px) 100vw, 740px" /><p id="caption-attachment-12975" class="wp-caption-text">復元された大岩田町のずい道。「高木原の広場」にある</p></div>

<p>先ほど紹介した実際のずい道は近くから見ることは難しいが、こちらの復元されたものは間近で見て触れることができる。おいそれとは崩れなさそうな堅牢なたたずまいが歴史を感じさせ、趣深い。</p>
<p>現在の高木原用水路周辺は、九州自動車道の都城インターチェンジや国道10号の通過に加え、志布志道路も開通したことで交通の要所としての存在感が増している。また、大型店舗が立ち並び、ディーラー街や工業地域としての側面も大きい。</p>
<p>しかし、今もまだ豊かな緑をたたえる田畑は多く残る。収穫された作物は、私たち市民はもちろん、県内あるいは全国の人々の食卓を彩っている。その背景に、高木原用水路の存在があることを忘れてはならない。高木原地区が開田されることがなければ、都城の発展は大きく違うものになっていたかもしれないのだ。</p>
<p>私たちが当然のように享受している恩恵は、無数の人々の苦労の上に成り立っているということを改めて感じる。高木原緑道をはじめ、用水路の痕跡は今も市内のあちこちに残り、私たちに“当たり前”の尊さを静かに伝えているのだ。</p>
<h2>都城の歴史に触れてみよう</h2>
<p>西都城駅近くの志布志線高架跡、大正時代の面影を残す吉都線の橋りょう、都島公園にたたずむ竹之下橋の親柱、そして米づくりを支えた高木原用水路の痕跡……。</p>
<p>これらはすべて、都城というまちをかたちづくってきた確かな記憶である。</p>
<p>文化財として守られているものではないため、いつか消えてしまうかもしれない。風化し、取り壊され、人々の視界から消えていくこともあるだろう。</p>
<p>しかし、そこに刻まれた人々の営みや思いというものは、現代に生きる者が当時を思い、その記憶を語り継ぐことで、生き続けることができる。</p>
<p>そのためにも、暮らしに潜む史跡に一人でも多くの人に気づいてもらい、時代を超えた人々の思いや営みに触れてほしい。その瞬間、歴史は受け継がれるのだから。</p>
<p><span style="font-family: 'Hiragino Sans', 'ヒラギノ角ゴ ProN', 'Hiragino Kaku Gothic ProN', 游ゴシック, YuGothic, メイリオ, Meiryo, sans-serif; font-size: 16px;">参考文献：</span><br />
<span style="font-family: 'Hiragino Sans', 'ヒラギノ角ゴ ProN', 'Hiragino Kaku Gothic ProN', 游ゴシック, YuGothic, メイリオ, Meiryo, sans-serif; font-size: 16px;">都城市史編さん委員会『都城市史 通史編 近現代』</span><br />
<span style="font-family: 'Hiragino Sans', 'ヒラギノ角ゴ ProN', 'Hiragino Kaku Gothic ProN', 游ゴシック, YuGothic, メイリオ, Meiryo, sans-serif; font-size: 16px;">南九州文化研究会『第135号 南九州文化 戦いの記憶』</span><br />
<span style="font-family: 'Hiragino Sans', 'ヒラギノ角ゴ ProN', 'Hiragino Kaku Gothic ProN', 游ゴシック, YuGothic, メイリオ, Meiryo, sans-serif; font-size: 16px;">都城史談会『もろかた 第35号』</span><br />
<span style="font-family: 'Hiragino Sans', 'ヒラギノ角ゴ ProN', 'Hiragino Kaku Gothic ProN', 游ゴシック, YuGothic, メイリオ, Meiryo, sans-serif; font-size: 16px;">都城市教育委員会『郷土学習資料 高木原用水路』</span><br />
<span style="font-family: 'Hiragino Sans', 'ヒラギノ角ゴ ProN', 'Hiragino Kaku Gothic ProN', 游ゴシック, YuGothic, メイリオ, Meiryo, sans-serif; font-size: 16px;">都城市教育委員会『“みやこんじょ”を知ろう&#x203c;︎都城の歴史と人物【増補改訂版】』</span><br />
<span style="font-family: 'Hiragino Sans', 'ヒラギノ角ゴ ProN', 'Hiragino Kaku Gothic ProN', 游ゴシック, YuGothic, メイリオ, Meiryo, sans-serif; font-size: 16px;">JR吉都線100周年記念事業実行委員会『吉都線全線開通100周年記念誌』</span></p>
<p><span style="font-family: 'Hiragino Sans', 'ヒラギノ角ゴ ProN', 'Hiragino Kaku Gothic ProN', 游ゴシック, YuGothic, メイリオ, Meiryo, sans-serif; font-size: 16px;">取材協力：</span><br />
<span style="font-family: 'Hiragino Sans', 'ヒラギノ角ゴ ProN', 'Hiragino Kaku Gothic ProN', 游ゴシック, YuGothic, メイリオ, Meiryo, sans-serif; font-size: 16px;">都城市土木部道路公園課</span></p>The post <a href="https://think-miyakonojo.jp/article/12933/">教科書に載らない「暮らしに潜む史跡」 <span>廃線跡・橋りょう・用水路が物語る歴史</span></a> first appeared on <a href="https://think-miyakonojo.jp">Think都城</a>.]]></content:encoded>
					
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		<title>あしもとに刻まれた文化財 島津家隆盛の裏で懸命に生きた証</title>
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		<dc:creator><![CDATA[三角園 泉]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 07 Jan 2026 01:00:37 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[まちにたたずむ歴史]]></category>
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					<description><![CDATA[<ul>
<li>「島津発祥の地」である都城には、数多くの著名文化財が残る。</li>
<li>約300年に及ぶ島津家統治の裏側で、懸命に生きた人々もいる。</li>
<li>その営みの証とも言える足跡は今もそこかしこに刻まれている。</li>
</ul>
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										<content:encoded><![CDATA[<h2>平日もにぎわう「都城島津邸」</h2>

<div id="attachment_12864" style="width: 740px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12864" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu03.jpg" alt="" width="740" height="417" class="wp-image-12864" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu03.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu03-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 740px) 100vw, 740px" /><p id="caption-attachment-12864" class="wp-caption-text">「都城島津邸」の御門。1935（昭和10）年の陸軍大演習に伴う改修のときに設置された</p></div>

<p>都城市役所から車で東に3分ほど。わずか1キロメートル（km）足らずの場所に、都城の歴史を知ることができる「都城島津邸」がある。</p>
<p>駐車場に車を停めると、ちょうど大型の観光バスが出発するところだった。そろいの法被を身にまとったボランティアガイドが、大きく手を振って見送っている。</p>
<p>「最近多いですね。1日に2〜3件のバスツアーの団体さんが来られることもあります」と話すのは、都城島津邸で学芸員を務める中嶋愛さん。「ボランティアのガイドさんですが、ガイドの内容や質は“プロ”級です」と笑顔をこぼす。</p>
<p>中嶋さんは、都城島津家に関する調査や研究に取り組むほか、専門知識を活かして文化財の価値を訪れる観光客などに伝えており、展示の企画や運営なども担う。</p>

<div id="attachment_12862" style="width: 740px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12862" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu01.jpg" alt="" width="740" height="417" class="wp-image-12862" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu01.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu01-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 740px) 100vw, 740px" /><p id="caption-attachment-12862" class="wp-caption-text">都城島津邸で学芸員を務める中嶋愛さん</p></div>

<p>約5000坪もある敷地内には、都城市指定文化財にもなっている本宅、剣道場や農芸館、石蔵のほか、都城島津伝承館などがあり、その豊かな歴史を伝えている。</p>
<p>いわば、都城における“本流”の歴史。まるで、市内を滔々と流れる大淀川のようだ。</p>
<p>しかし、時代とは“本流”だけで構成されるものではない。そこには、あまたの“支流”も横たわっている。そして、本流とあわせて支流も知ることで見えて来るものがある。</p>
<p>当時の「民」、名もなき人々が懸命に生きた証――。その足跡をたどった。</p>
<h2>「島津発祥の地」の2つの意味</h2>
<p>まずは、本流である「島津」と都城の関係性を理解しておきたい。都城は「島津発祥の地」と言われている。そもそも、発祥とはどういうことなのだろうか。</p>
<p>「じつは『島津発祥の地』には2つの意味があります」と中嶋さん。それは、「島津“荘”」と「島津“家”」、2つの発祥の地という意味だと教えてくれた。</p>
<p>「平安時代の万寿年間（1024〜28年）、太宰府の役人だった平季基が都城盆地を中心とする地域を開発したと言われています。この地域を当時、朝廷で実権を握っていた関白藤原頼通に寄進したことで、『島津荘（しまづのしょう）』が成立しました。『島津』という地を中心としたことから、そう名付けられました。現在の郡元町付近だと考えられています」</p>
<p>島津荘の成立当初、その範囲は都城市と三股町のほぼ全域、曽於市財部町・末吉町の一部だったが、次第に鹿児島県全域にまで広がり、8000町歩（約8000ヘクタール）にも及ぶ日本最大級の荘園となった。これが島津荘の始まりだ。</p>
<p>もう一つの発祥について、中嶋さんは説明を続けた。</p>

<div id="attachment_12863" style="width: 740px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12863" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu02.jpg" alt="" width="740" height="417" class="wp-image-12863" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu02.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu02-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 740px) 100vw, 740px" /><p id="caption-attachment-12863" class="wp-caption-text">都城島津伝承館の資料室で中嶋さんに話を伺った</p></div>

<p>「次に、『島津家』の始まりについてです。鎌倉時代に入り、1185（文治元）年8月に源頼朝が島津荘の下司職（げすしき・荘園の管理人）に、『惟宗（これむね）忠久』を任命しました。それ以降、忠久は地名をとって『島津』を名乗るようになりました。これが『島津“家”発祥の地』と言われるゆえんです」</p>
<p>島津忠久はその後、拠点を鹿児島県へと移行。南北朝時代の1352（文和元）年、島津本家の4代島津忠宗の6男、資忠（すけただ）が、足利尊氏から現在の都城市北西部にあたる「北郷（ほんごう）」と呼ばれる地を合戦の恩賞として授けられ、「北郷資忠」と名乗るようになった。</p>
<p>「北郷家は島津家の分家ではありますが、島津氏と対等な立場にありました。それは、北郷氏の所領が幕府から直接与えられたもので、島津氏から独立したものという意識もあったからでしょう」と中嶋さんは説明する。</p>
<p>江戸時代に入ると、北郷家は島津本家からの命によって姓を「島津」と改め、ここに「都城島津家」が誕生した。1869（明治2）年の版籍奉還によって島津久寛が領地と領民を朝廷に返上するまで、都城領内を統治することになる。</p>
<p>ここまでは、いわば栄華の歴史であり、時代の表舞台。</p>
<p>一方、300年に及ぶ統治の裏側には、時代の荒波に揉まれ、領主たちの采配に翻弄されながらも必死に生き抜く人々の姿があった。その営みの痕跡を示す史跡や文化財が、都城のそこかしこに横たわっている。</p>
<h2>命をかけて祈り続けた「かくれ念仏洞」</h2>
<p>まず向かったのは、高城町有水。宮崎市へと向かう国道10号を北へと入り、しばらく車を走らせたところに、「田辺かくれ念仏洞」の案内板が立っている。</p>

<div id="attachment_12868" style="width: 600px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12868" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu04.jpg" alt="" width="600" height="358" class="wp-image-12868" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu04.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu04-768x458.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /><p id="caption-attachment-12868" class="wp-caption-text">「田辺かくれ念仏洞」の看板が通り沿いに立っている</p></div>

<p>この史跡を理解するには、当時の時代背景を知る必要がある。</p>
<p>1597（慶長2）年、17代藩主島津義弘によって「一向宗（浄土真宗）」が正式に禁止された。しかし信者たちは地域ごとに「講」と呼ばれる集団を作り、ひそかに信仰を続けていた。</p>
<p>「一向宗が禁止された理由は、強力な組織力と結束力を持つ一向宗の勢力を恐れたからとも言われていますが、定かではありません」と中嶋さん。ともあれ、信者は厳しい弾圧のなか山の中や洞穴などに隠れ、「法座」と呼ばれる説法の集会を開いた。</p>
<p>これを「かくれ念仏」と呼ぶ。もちろん、都城でも弾圧はあった。『薩摩かくれ念仏と日向 一向宗禁制と六十六部（前田博仁 著）』には次のような著述がある。</p>
<blockquote>
<p>一向宗門徒と疑うと会所（現在都城警察署がある所）に連れていき自白を迫るが、白状しないと拷問を行った。先ず太い青竹で、臀部、上腕、脛、上膊を打つ。竹が割れるほど打つ。樫の棒で打つ場合もあった。打った所が化膿して蛆がわいても容赦なく打った。</p>
<p>男の場合は三角柱の割木を数本並べた上に正座させ、膝の内側に棒を挟ませた。それだけでも苦痛であるがさらに膝の上に板状の石をのせ自白を強要する。それでも自白しないと石を加え、その重さは五、六十斤（30〜36kg）にもなり、さらに膝に挟んだ棒を左右から棒で叩く</p>
</blockquote>
<p>このほかにもさまざまな拷問の方法が記されているが、どれも目を逸らしたくなるほどの苛酷さである。それでも人々は信仰を続け、洞穴で祈りを捧げた。その一つが、冒頭の田辺かくれ念仏洞というわけだ。</p>

<div id="attachment_12870" style="width: 600px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12870" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu06.jpg" alt="" width="600" height="338" class="wp-image-12870" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu06.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu06-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /><p id="caption-attachment-12870" class="wp-caption-text">田辺かくれ念仏洞へと続く山道。50mほど下る</p></div>

<p>通り沿いから、簡易的に整備された山道を50mほど下っていったところに田辺かくれ念仏洞はあった。</p>
<p>うっそうとした木々に囲まれた奥地。周囲には湧き水があふれ、水たまりも広がっている。</p>

<div id="attachment_12872" style="width: 740px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12872" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu08.jpg" alt="" width="740" height="417" class="wp-image-12872" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu08.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu08-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 740px) 100vw, 740px" /><p id="caption-attachment-12872" class="wp-caption-text">田辺かくれ念仏洞の入り口。中には洞穴が広がり、池もあったようだ。現在は立ち入ることができない</p></div>

<p>訪れた日は小春日和の暖かさだったにもかかわらず、いつのまにか空気がひんやりと変化していて、吐く息が白い。当時の人々が監視の目から逃れ、この場所へたどり着き、救いを求めたのかと思うと胸が詰まる。</p>
<p>ここは、都城市内に残るかくれ念仏洞で最大規模を誇る。奥行きは26mで高さは3m70cmあり、約40人を収容できたという。崩落の危険があるため、現在は立ち入ることはできないが、暗く静まり返っている内部を入り口から覗き込むことはできる。</p>

<div id="attachment_12878" style="width: 600px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12878" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu09-2.jpg" alt="" width="600" height="338" class="wp-image-12878" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu09-2.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu09-2-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /><p id="caption-attachment-12878" class="wp-caption-text">中には入れないが、洞穴内の形状が解説されている</p></div>

<p>信者がここに集まる時は、わざわざ馬の手綱や釣竿を持って出かけた。役人にとがめられると「馬を探しに行く」「釣りに行くところだ」などと言い逃れをしたとか。逆境下でも、したたかに一途に信仰を守り、生き抜こうとした人々の息づかいが聞こえてくるようだった。</p>
<p>信じるものを守り抜こうとした痕跡はほかにもある。<strong> </strong></p>
<h2>破壊から逃れた奇跡の石仏群</h2>
<p>かつて、歴史の教科書で「廃仏毀釈」について学んだことを覚えているだろうか。明治時代初頭、政府によって行われた神仏分離令に端を発する仏教の抑圧・排斥運動。なかでも薩摩藩領内では激しく断行されたことで知られている。</p>
<p>薩摩藩では西洋化を推し進めるため、寺の持つ広大な土地や鐘などの金属資源を没収し、軍備費を拡大したいという思惑もあったとされる。</p>
<p>「僧侶は還俗（げんぞく＝一般人に戻ること）させられ、寺は焼き払われました。古文書や仏像などの文化財も徹底的に破壊されたといいます」と中嶋さん。都城にも廃仏毀釈の波は激しく襲い掛かり、仏教に関するものはほとんど失われたといわれる。</p>

<div id="attachment_12874" style="width: 600px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12874" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu10.jpg" alt="" width="600" height="338" class="wp-image-12874" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu10.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu10-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /><p id="caption-attachment-12874" class="wp-caption-text">「天長寺（都島町）」の駐車場</p></div> <div id="attachment_12881" style="width: 600px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12881" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu11.jpg" alt="" width="600" height="338" class="wp-image-12881" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu11.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu11-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /><p id="caption-attachment-12881" class="wp-caption-text">小高い丘の上に石仏群はある</p></div>

<p>そうしたなか、天長寺（都島町）には完全な姿で仏像が残されていた。</p>
<p>天長寺の記録によると、1868（明治元）年10月12日、役人と神官がやってきて寺の取り壊しを行ったという（のちに再興）。その際、奇跡的に無傷で残ったのが、ここにある石仏群だという。</p>

<div id="attachment_12882" style="width: 740px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12882" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu12.jpg" alt="" width="740" height="417" class="wp-image-12882" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu12.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu12-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 740px) 100vw, 740px" /><p id="caption-attachment-12882" class="wp-caption-text">「阿弥陀如来坐像」。手元は瞑想の状態をあらわす「弥陀定印」を結んでいる</p></div>

<p>代表的な石仏を見ていこう。まず目を惹くのが「阿弥陀如来坐像」。総高167cmで蓮華座に座し、非常に迫力がある。</p>

<div id="attachment_12883" style="width: 740px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12883" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu13.jpg" alt="" width="740" height="417" class="wp-image-12883" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu13.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu13-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 740px) 100vw, 740px" /><p id="caption-attachment-12883" class="wp-caption-text">「不動明王と両脇侍像」。1564（永禄7）年に天長寺五世舜杲が奉納したとの銘が残っている</p></div>

<p>こちらは「不動明王と両脇侍像」。総高140cmで上段に不動明王坐像、下段に矜羯羅（こんがら）と制吒迦（せいたか）の童子を浮き彫りにした不動三尊像だ。</p>
<p>続いては、「地蔵菩薩坐像」。総高54cmで、光背（背後にある光の輪）が舟を立てたような形の「舟形光背」となっている。</p>

<div id="attachment_12884" style="width: 740px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12884" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu14.jpg" alt="" width="740" height="417" class="wp-image-12884" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu14.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu14-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 740px) 100vw, 740px" /><p id="caption-attachment-12884" class="wp-caption-text">「地蔵菩薩坐像」。光背の左肩に「天正&#x2b1c;︎年十二月四日」の文字が刻まれている</p></div>

<p>いずれの石像も彫りが美しく、顔がはっきりと見て取れる。優れた石工によって彫られたのだろう。廃仏毀釈という荒波を乗り越えたと思うと、より崇高に感じられる。</p>
<p>現在も廃仏毀釈の影響は大きく、47都道府県における寺院数の平均は「1643カ寺」にもかかわらず、鹿児島県は「488カ寺」、宮崎県は「345カ寺」と極端に少ない（鵜飼秀徳著「仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか」より）。</p>
<p>それだけ、南九州では激しい取り締まりがあったということなのだろう。しかし、さまざまなやり方で人々は信仰を守ろうとしたと中嶋さんは話す。</p>
<p>「寺や仏像を壊しはするけれど、心を痛めたひとのなかには、こっそりと仏像を隠し持っていったり、石像を後からくっつけられるよう断面を平らにして壊したり、あるいは土の中に隠したりしたひともいた、という例もあります」</p>
<p>地域の信者も、寺の資産を守ることに一役買ったとみられる。</p>
<p>「安久町の興玉神社には、正応寺というお寺の薬師如来を祀った『厨子（仏像などの収納具）』が残されているんですよ。廃仏毀釈のときに地区の人々が正応寺からこっそりと持ち出し、興玉神社の内神殿として保管されるようになったようです」</p>
<p>ただ、そういった名もなき人々の声は記録として残っていないため、「遺物から推測するしかない」とも中嶋さんは話す。残された仏像たちは、密かに信仰を守ろうとした人々の心の証であり、その記憶を今に伝える貴重な“証言者”とも言える。</p>
<h2>焼酎で体を温めて開削「観音瀬水路」</h2>
<p>もちろん、暗い爪痕ばかりが残っているわけではない。</p>
<p>都城島津家は地域の発展を促す基盤整備にも注力した。今もその跡を確認することができる。そのうちの一つ、「観音瀬水路」へと向かった。</p>

<div id="attachment_12890" style="width: 740px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12890" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu16.jpg" alt="" width="740" height="417" class="wp-image-12890" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu16.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu16-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 740px) 100vw, 740px" /><p id="caption-attachment-12890" class="wp-caption-text">「観音瀬水路」の上流を眺める。向かって右側が高崎町、左側が高城町</p></div>

<p>観音瀬水路は、高崎町縄瀬・高城町有水間の大淀川の急流に存在する。江戸時代の中頃まで巨大な岩が林立した激流となっており、下流は高さ10mほどの滝になっていた。</p>
<p>そんななか、22代都城領主の久倫（ひさとも）は、観音瀬を開削すれば宮崎の赤江港までの舟路が開き、都城の経済が活性化すると考え、家臣の藤崎公寛（きみひろ）にこの工事を命じた。「とにかく難工事だったようです」と中嶋さんは話す。</p>
<p>「激流や岩が作業を阻むため、工事は困難を極めたといいます。水量が少なくなる冬の時期しか作業ができず、寒さのなか『焼酎』を飲んで、凍える体を温めながら作業を進めたという都城らしいエピソードも残っています」</p>

<div id="attachment_12889" style="width: 600px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12889" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu15.jpg" alt="" width="600" height="338" class="wp-image-12889" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu15.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu15-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /><p id="caption-attachment-12889" class="wp-caption-text">観音瀬水路の歴史を伝える看板</p></div>

<p>1791（寛政3）年10月に着工し、1794（寛政6）年12月、左岸に幅一間（約1.82m）の水路開削が竣工した。そのときの逸話も残っている。</p>
<blockquote>
<p>開通の当日、藤崎公寛（ふじさききみひろ）は、早瀬船（はやせぶね）が荷を積んで下っていく姿を岩の上で裃（かみしも）姿で刀を差して正座して待った。岩に当たって舟が沈んだら、その場で切腹して責任をとる覚悟であった。</p>
<p>船頭の櫓（ろ）さばきや竿（さお）の操り方一つで、無事に川下へ下っていく舟を見届けることができ、皆は大いに喜び合った。</p>
<div class="ta_right">（<a href="https://www.qsr.mlit.go.jp/miyazaki/html/kasen/iware/#:~:text=%E3%80%8E%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80%E3%80%8F%E3%81%AB%E6%9B%B8,%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E8%AA%AC%E3%81%AA%E3%81%A9%E3%81%8C%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82" target="_blank" rel="noopener">大淀川流域地名いわれ事典</a>「観音瀬」）</div>
</blockquote>
<p>現在の金額で「7億円」もの費用をかけて行われた工事であり、責任者である公寛のプレッシャーがいかほどのものであったか想像に難くない。</p>
<p>結果として、現在の竹之下橋から赤江港まで物資の運搬が可能となり、都城圏域の経済活性化に寄与した。また、1887（明治20）年には県による工事が行われ、1890（明治23）年、右岸にさらに幅一間の水路開削が完成している。</p>

<div id="attachment_12891" style="width: 600px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12891" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu17.jpg" alt="" width="600" height="338" class="wp-image-12891" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu17.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu17-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /><p id="caption-attachment-12891" class="wp-caption-text">現在の竹之下橋。水路が通った当時は最も大きな橋だったという</p></div>

<p>12月〜2月は水量が少なく、実際に岩盤が開削された跡を見ることができる。のみで削った跡が今も生々しく残る。</p>
<p>もちろん当時、重機はない。真冬の冷たい水に浸かり、凍えそうになりながら、一つひとつ手作業を進めていったのだろう。当時の人々の苦労が偲ばれる。</p>

<div id="attachment_12892" style="width: 740px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12892" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu18.jpg" alt="" width="740" height="417" class="wp-image-12892" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu18.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu18-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 740px) 100vw, 740px" /><p id="caption-attachment-12892" class="wp-caption-text">関之尾の甌穴群を思わせるような開削の跡</p></div>

<p>今でこそ川面は穏やかな顔を見せているが、水流は思いのほか速い。激流に揉まれながら、硬い岩盤を掘削していた人々の姿を想像すると、身がすくむ思いだ。なお、周辺は滑りやすくなっているため、訪れる際は十分に注意してほしい。</p>
<h2>山あいに残る「寒天“密造”工場」</h2>
<p>続いて向かったのは山之口町。国道269号沿いなどに「島津寒天工場跡」という看板が立っているため、車を走らせながら気になっていた方も多いのではないだろうか。</p>

<div id="attachment_12894" style="width: 740px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12894" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu20.jpg" alt="" width="740" height="417" class="wp-image-12894" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu20.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu20-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 740px) 100vw, 740px" /><p id="caption-attachment-12894" class="wp-caption-text">山之口町にある「島津寒天工場跡」</p></div>

<p>「『島津』と『寒天』にどんな関係性が？」「都城に海はないのになぜ寒天工場？」など、筆者も前々から疑問に思っていた。中嶋さんに尋ねると「実は密造していたんです」との答え……。ますます混乱してきた。中嶋さんは続ける。</p>
<p>「江戸時代末期、薩摩藩は厳しい財政難に陥っていました。そこで、島津本家で財政改革にあたっていた家老調所広郷は、指宿で海運業を営んでいた浜崎太平次と協力し、山之口町に寒天製造工場を作ったんです」</p>
<p>「寒天の原料となるテングサは甑島などの薩摩西海岸から運ばれてきたようです。できあがった寒天は福山へと運ばれ、大坂や長崎を経て、中国やロシアに密輸されたといいます」</p>

<div id="attachment_12895" style="width: 740px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12895" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu21.jpg" alt="" width="740" height="417" class="wp-image-12895" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu21.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu21-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 740px) 100vw, 740px" /><p id="caption-attachment-12895" class="wp-caption-text">寒天工場跡の内部には巨大な窯が並んでいた</p></div>

<p>しかし、なぜ、わざわざ海から離れたこの地を選んだのだろうか。</p>
<p>「朝晩の寒暖差が大きいという、寒天を製造するのに適した自然条件を備えていたことが一つ。そして、幕府の役人の目を避けるためだったともいわれています」と中嶋さん。ちなみに、山之口は都城島津家の私領ではなく、島津本家の直轄領だった。</p>
<p>確かに、大きな通りから入ったひっそりとした場所に静かにたたずんでいる。周囲から聞こえてくるのは鳥の鳴き声だけ。当時はもっとうっそうとした山奥だったに違いない。</p>
<p>案内看板には次のような解説がある。</p>
<blockquote>
<p>寒天製造の最盛期は、1854（安政元）年から1871（明治4）年頃までで、監督者や技術者は鹿児島から派遣され、従業員は西目（指宿、伊集院、伊作など）からの出稼ぎが約80名、地元採用で約50名であわせて約120〜130名であったといわれています。</p>
</blockquote>
<p>地元はもとより鹿児島からもやってきた人々が、この静かな山あいの地でひたすら寒天を作っていたのだろう。</p>
<p>大きな釜にぐらぐらと湯を沸かし、たっぷりのテングサを炊く。近くには永野川が流れている。そこから水を汲んできたのだろうか。霧島連山から吹き荒ぶ「霧島おろし」は、寒天を乾燥させるのにもってこいだったのかもしれない。</p>

<div id="attachment_12896" style="width: 600px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12896" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu22.jpg" alt="" width="600" height="338" class="wp-image-12896" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu22.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu22-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /><p id="caption-attachment-12896" class="wp-caption-text">まるで風呂のような釜</p></div> <div id="attachment_12897" style="width: 600px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12897" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu23.jpg" alt="" width="600" height="338" class="wp-image-12897" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu23.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History04_Shimazu23-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /><p id="caption-attachment-12897" class="wp-caption-text">切石と石が積まれている</p></div>

<p>窯は直径130cm、高さ180cmほどで、切石が積まれ、隙間を埋めるように石が詰め込まれている。人一人が余裕で入れるほどの巨大な釜で湯を沸かすには、たくさんの薪をくべ、ゴウゴウと火を起こす必要がある。狭い工場は、灼熱だっただろう。</p>
<p>額に玉のような汗をかきながら作業に勤しむ当時の人々の姿が浮かんでくるようだった。</p>
<h2>足元に今も残る“普通の人々”の軌跡</h2>
<p>都城が発展する基盤を作り上げた都城島津家。一方で、歴史の流れに翻弄されながらも、日々の暮らしを守ろうと、祈りを捧げた人々がいた。時代や環境は違えど、現代を懸命に生きる私たちと重なる。同じ「普通の人々」の姿と言えよう。</p>
<p>そして、彼らの足跡は、普段何気なく通り過ぎている我々の“あしもと”に、深く、しっかりと刻まれている。最後に中嶋さんは、こう付け足した。</p>
<p>「歴史というのは領主やリーダーだけのものではなく、その地で生活していた人の積み重ねでもあります。都城にも、かつて動乱の時代を生き抜いた人々の足跡が数多く残っています。きっとお住まいの近くにも史跡や文化財があるはずですから、ぜひ探してみてほしいですね」</p>
<p>歴史とは遠い過去ではなく、今もこの場所に息づいているものだ。いつもより少し視線を下げて、先人たちの軌跡をたどってみてほしい。</p>
<p><span style="font-family: 'Hiragino Sans', 'ヒラギノ角ゴ ProN', 'Hiragino Kaku Gothic ProN', 游ゴシック, YuGothic, メイリオ, Meiryo, sans-serif; font-size: 16px;">参考文献：</span><br />
<span style="font-family: 'Hiragino Sans', 'ヒラギノ角ゴ ProN', 'Hiragino Kaku Gothic ProN', 游ゴシック, YuGothic, メイリオ, Meiryo, sans-serif; font-size: 16px;">都城市教育委員会『都城市の文化財』</span><br />
<span style="font-family: 'Hiragino Sans', 'ヒラギノ角ゴ ProN', 'Hiragino Kaku Gothic ProN', 游ゴシック, YuGothic, メイリオ, Meiryo, sans-serif; font-size: 16px;">都城市教育委員会『“みやこんじょ”を知ろう&#x203c;︎都城の歴史と人物【増補改訂版】』</span><br />
<span style="font-family: 'Hiragino Sans', 'ヒラギノ角ゴ ProN', 'Hiragino Kaku Gothic ProN', 游ゴシック, YuGothic, メイリオ, Meiryo, sans-serif; font-size: 16px;">前田博仁『薩摩かくれ念仏と日向 一向宗禁制と六十六部』</span><br />
<span style="font-family: 'Hiragino Sans', 'ヒラギノ角ゴ ProN', 'Hiragino Kaku Gothic ProN', 游ゴシック, YuGothic, メイリオ, Meiryo, sans-serif; font-size: 16px;">鵜飼秀徳『仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか』</span><br />
<span style="font-family: 'Hiragino Sans', 'ヒラギノ角ゴ ProN', 'Hiragino Kaku Gothic ProN', 游ゴシック, YuGothic, メイリオ, Meiryo, sans-serif; font-size: 16px;">山下真一『都城の世界・「島津」の世界 都城島津家・戦国領主から《私領》領主への道』</span><br />
<span style="font-family: 'Hiragino Sans', 'ヒラギノ角ゴ ProN', 'Hiragino Kaku Gothic ProN', 游ゴシック, YuGothic, メイリオ, Meiryo, sans-serif; font-size: 16px;">畑中章宏『廃仏毀釈』</span></p>The post <a href="https://think-miyakonojo.jp/article/12853/">あしもとに刻まれた文化財 <span>島津家隆盛の裏で懸命に生きた証</span></a> first appeared on <a href="https://think-miyakonojo.jp">Think都城</a>.]]></content:encoded>
					
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		<title>まちに息づく石蔵・石垣を訪ねて  “石”に宿る記憶をたどる</title>
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		<dc:creator><![CDATA[三角園 泉]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 12 Dec 2025 03:00:54 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[まちにたたずむ歴史]]></category>
		<category><![CDATA[中心市街地]]></category>
		<category><![CDATA[池田浩二]]></category>
		<category><![CDATA[石垣]]></category>
		<category><![CDATA[石蔵]]></category>
		<category><![CDATA[石蔵・石垣保存プロジェクト]]></category>
		<category><![CDATA[花商小倉]]></category>
		<category><![CDATA[都城商工会議所]]></category>
		<category><![CDATA[都城島津邸]]></category>
		<category><![CDATA[都城市地域プロジェクトマネージャー]]></category>
		<category><![CDATA[都城市立図書館]]></category>
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					<description><![CDATA[<ul>
<li>溶結凝灰岩による古き「石蔵」や「石垣」が市内に数多く残されている。</li>
<li>都城市地域プロジェクトマネージャーらが「石蔵・石垣マップ」を制作。</li>
<li>石蔵・石垣の知見を深めることは、都城の歴史を知ることにもつながる。</li>
<ul>
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										<content:encoded><![CDATA[<h2>市立図書館で石蔵・石垣のイベントが開催</h2>
<p>2025年9月13日の土曜、処暑も過ぎたというのに暑さの収まる気配がないその日、都城市立図書館のなかも外に負けんばかりの熱気であふれていた。</p>

<div id="attachment_12738" style="width: 740px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12738" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi01.jpg" alt="" width="740" height="417" class="wp-image-12738" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi01.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi01-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 740px) 100vw, 740px" /><p id="caption-attachment-12738" class="wp-caption-text">2025年9月、都城市立図書館で「石蔵・石垣保存プロジェクト」のイベントが開催。「ブラタモリ」出演経験もある東川隆太郎氏が講師を務めた<span>（都城商工会議所提供）</span></p></div>

<p>開催されていたのは「石蔵・石垣保存プロジェクト」のイベント第2弾。市内に現存する石蔵・石垣を通して「まちの魅力」を発掘する取り組みの一環で、「まち・音楽・記憶のひととき」と題されたこの日のイベントでは、石と文化財をテーマとした講演会のほか、音楽演奏や記録映像の上映会などが実施された。</p>

<div id="attachment_12741" style="width: 600px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12741" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi02.jpg" alt="" width="600" height="338" class="wp-image-12741" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi02.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi02-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /><p id="caption-attachment-12741" class="wp-caption-text">石蔵・石垣の記録映像上映と東瑛子氏による音楽演奏も実施された<span>（同上）</span></p></div>

<p>都城商工会議所まちづくり委員会が主催。講師は「特定非営利活動法人まちづくり地域フォーラム・かごしま探検の会」の東川隆太郎 代表理事が務めた。</p>
<p>図書館1階のホールに用意された数十席の椅子は、そのほとんどが埋まり、筆者を含む聴衆が東川氏のユーモアあふれる語り口に熱心に耳を傾けていた。</p>

<div id="attachment_12744" style="width: 600px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12744" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi04.jpg" alt="" width="600" height="338" class="wp-image-12744" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi04.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi04-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /><p id="caption-attachment-12744" class="wp-caption-text">「まち・音楽・記憶のひととき」では街歩きも実施。都城市立図書館長の井上康志氏が案内し、30人ほどが参加した<span>（同上）</span></p></div>

<p>今、都城で“石”が静かな盛り上がりを見せている。背景を追うと、あるマップの制作と、それを仕掛けたひとの存在があった。</p>
<h2>「みやこのじょうまちなか石蔵・石垣マップ」</h2>

<div id="attachment_12748" style="width: 350px" class="wp-caption alignright"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12748" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ikeda01.jpg" alt="" width="350" height="350" class="wp-image-12748" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ikeda01.jpg 700w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ikeda01-500x500.jpg 500w" sizes="auto, (max-width: 350px) 100vw, 350px" /><p id="caption-attachment-12748" class="wp-caption-text">池田 浩二(いけだ・こうじ) 氏。一級建築士<br />
<span>都城高専卒業後、大手設計事務所で公共施設やオフィスなどの設計を担う。東日本大震災の復興事業やまちづくりの社会実験などにも携わり、2023年9月、「都城市地域プロジェクトマネージャー」に就任。まちなかの空間を利用したプロジェクトなど、高校生らとともにまちづくり活動を続ける。（池田浩二氏提供）</span></p></div>

<p>仕掛けたのは、都城市地域プロジェクトマネージャーの池田浩二氏。2023（令和5）年9月に同職に着任し、空き店舗対策などのハード面に加え、まちなかの賑わいを創出するソフト面での活性化にも取り組む。</p>
<p>そんな池田さんを中心に「石蔵・石垣保存プロジェクトチーム」が立ち上がり、「<a href="https://www.my-machitan.jp/wp-content/uploads/2025/01/ishi-map-omotemenura.pdf" target="_blank" rel="noopener">みやこのじょうまちなか石蔵・石垣マップ</a>（以下、石蔵・石垣マップ）」が制作された。</p>
<p>「石蔵・石垣マップ」は、その名の通り中心市街地に残る石蔵や石垣についてまとめられたパンフレット。中心市街地のどこにどんな石蔵や石垣が残っているのかが一目で分かるようになっており、都城市立図書館などの公共施設で無料配布されている。</p>

<div id="attachment_12752" style="width: 300px" class="wp-caption alignleft"><a href="https://www.my-machitan.jp/wp-content/uploads/2025/01/ishi-map-omotemenura.pdf" target="_blank" rel="noopener"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12752" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi05.jpg" alt="" width="300" height="424" class="wp-image-12752" /></a><p id="caption-attachment-12752" class="wp-caption-text">「<a href="https://www.my-machitan.jp/wp-content/uploads/2025/01/ishi-map-omotemenura.pdf" target="_blank" rel="noopener">みやこのじょうまちなか石蔵・石垣マップ</a>」の紙面</p></div>

<p>さらに、このマップの完成を機に、冒頭で紹介したようなさまざまなイベントも開催されている。</p>
<p>池田さんは、石蔵や石垣にフォーカスしたプロジェクトを立ち上げた理由についてこう語る。</p>
<p>「市民の皆さんがまちを回遊するきっかけとなり、まちづくりの一環になればと思って立ち上げました。私はまちの魅力や個性というのは歴史や文化のなかにあると考えていて、都城の魅力は何だろうと掘り下げていった時、石蔵や石垣の存在に着目したんです」</p>
<p>地域プロジェクトマネージャーに就任してすぐの頃、「街を歩いていると古い石蔵や石垣が多いことに気づいた」（池田さん）。さっそくマップを作ろうとあちこちに呼びかけたものの、なかなか協力者が見つからなかった。「確かにちょっと地味なテーマですからね」と池田さんは笑う。</p>
<p>そこを、都城商工会議所が拾い上げてくれた。都城商工会議所まちづくり委員会の森山芳太郎 委員長を始め、都城市立図書館や市役所などのメンバーから成るプロジェクトチームが発足。地質学を専門とする鹿児島大学の大木公彦 名誉教授などの協力も得て、2024年12月、石蔵・石垣マップが完成した。</p>
<h2>“石”と都城のただならぬ関係</h2>
<p>ここで、石蔵・石垣が作られた背景について解説しておこう。時代は江戸、現在の都城市街地の原型ともいえるかたちができた頃へとさかのぼる。</p>
<blockquote>
<p>元和(げんな)元年(1615)、それまでの拠点であった「都城」が廃城となったため、都城領主北郷忠能は城を下り、盆地底の扇状地面に「領主館」と新しい「まち」の建設を始めました。これを「新地移り」といい、現在の市街地の基礎はこの時に造られたとされます。<br />
最初は天神山(現在の旭丘神社)を中心に、東西約360メートル、南北約270メートル、約99,000平方メートルの広さの屋敷が造られましたが、明暦2年(1656)からは、現在の明道小学校校庭あたりへと中心部が移動し、市役所東館入り口付近に表門が造られていたと伝えられています。</p>
<div class="ta_right">（都城市公式ホームページ「<a href="https://www.city.miyakonojo.miyazaki.jp/site/bunkazai/4059.html" target="_blank" rel="noopener">都城の文化財 都城領主館跡</a>」より）</div>
</blockquote>
<p>領主館周辺には武家屋敷が広がっていたとされ、それに伴い屋敷を囲う石垣が多く作られた。明治から昭和初期にかけては石蔵も盛んに作られた。</p>

<div id="attachment_12755" style="width: 350px" class="wp-caption alignright"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12755" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi06.jpg" alt="" width="350" height="350" class="wp-image-12755" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi06.jpg 700w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi06-500x500.jpg 500w" sizes="auto, (max-width: 350px) 100vw, 350px" /><p id="caption-attachment-12755" class="wp-caption-text">実際の溶結凝灰岩</p></div>

<p>これらの石蔵や石垣には、火山の噴火から生まれた「溶結凝灰岩（ようけつぎょうかいがん）」が使用されている。これは、巨大噴火によって発生した火砕流と気体が堆積し、自らの重みと熱で圧縮されて硬く変化した岩石。南九州に広く分布し、他の岩石と比較して柔らかく加工しやすいため、薩摩藩の建築物に多く用いられた。</p>
<p>現代では再度作るのは難しく、当時の発達した石文化を伝える貴重なものである。</p>
<p>前出のかごしま探検の会・東川代表理事によると、島津本宗家・分家の墓石に良質な溶結凝灰岩が使われており、現存する日本最古の洋式石造工場である旧集成館機械工場（尚古集成館）にも、断熱性に優れていることからレンガの代わりに溶結凝灰岩が用いられているという。</p>

<div id="attachment_12756" style="width: 600px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://www.kagoshima-kankou.com/industrial-heritage/52592" target="_blank" rel="noopener"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12756" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi07.jpg" alt="" width="600" height="400" class="wp-image-12756" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi07.jpg 1200w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi07-768x512.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /></a><p id="caption-attachment-12756" class="wp-caption-text">日本最古の西洋式機械工場とされる「旧集成館機械工場」<span>（鹿児島県観光サイト「<a href="https://www.kagoshima-kankou.com/industrial-heritage/52592" target="_blank" rel="noopener">かごしまの旅</a>」より）</span></p></div>

<p>都城市街地では、「版籍奉還により領主がいなくなった明治以降、街の建造物に溶結凝灰岩が使用されるようになった」と東川代表理事。溶結凝灰岩の存在は都城や鹿児島に豊かな石文化をもたらした。</p>
<p>しかし、時代の流れや都市化とともに、溶結凝灰岩が使われた石蔵・石垣が徐々に失われつつあるのも現状だ。「『石蔵・石垣マップ』を通して市民の皆さんに価値や魅力を認識していただき、保存のきっかけになればという思いもある」と池田さんは願いを込める。</p>
<p>では、都城の石蔵や石垣に使われている溶結凝灰岩はどこからやってきたものなのか。</p>
<p>都城の石蔵や石垣に使用されている溶結凝灰岩の多くは、約33万年前に加久藤カルデラ（現在のえびの市辺り）から噴出した「加久藤火砕流」によるものと考えられている。長い年月を経て岩石となり、それを切り出して石蔵や石垣の建築材料として加工した。</p>
<p>一般的に石材は「石切り場」で切り出される。だが、具体的にどこなのか、じつは都城においては不明な部分も多い。歴史文献にも明確な記録は残っていないという。そこで、池田さんはプロジェクトチームで独自に調査。場所が判明していなかった石切り場の一つを関之尾町で確認した。</p>

<div id="attachment_12759" style="width: 600px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12759" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi09.jpg" alt="" width="600" height="338" class="wp-image-12759" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi09.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi09-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /><p id="caption-attachment-12759" class="wp-caption-text">池田さんがひとづてに聞いて回り、ようやく見つけたという関之尾の石切り場<span>（都城商工会議所提供）</span></p></div>

<p>「昭和初期まで使われていたと聞いています。ちょうどその頃の石工さんのご子孫の方とお会いする機会があり、話を聞いたところ石切り場から荷馬車で石を運んでいたそうです。このほかにも安久川でも石切り場を見つけましたし、高崎町の観音瀬水路にもあります」</p>

<div id="attachment_12760" style="width: 600px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12760" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi10.jpg" alt="" width="600" height="338" class="wp-image-12760" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi10.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi10-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /><p id="caption-attachment-12760" class="wp-caption-text">ここで石を切り出し、現場まで荷馬車で運んでいった<span>（同上）</span></p></div>

<p>ちなみに、鹿児島大学の大木名誉教授によると、「関之尾町の石切り場で採れる石材は良質なもの」。市内に残る石蔵や石垣もここで採れた石材が多く使われていると考えられ、現在に至るまでまちの景観と歴史を守り続けている。</p>

<div id="attachment_12764" style="width: 300px" class="wp-caption alignleft"><a href="https://www.my-machitan.jp/wp-content/uploads/2025/01/ishi-map-omotemenura.pdf"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12764" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi12.jpg" alt="" width="300" height="300" class="wp-image-12764" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi12.jpg 700w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi12-500x500.jpg 500w" sizes="auto, (max-width: 300px) 100vw, 300px" /></a><p id="caption-attachment-12764" class="wp-caption-text">「<a href="https://www.my-machitan.jp/wp-content/uploads/2025/01/ishi-map-omotemenura.pdf" target="_blank" rel="noopener">みやこのじょうまちなか石蔵・石垣マップ</a>」で紹介されている表面仕上げの分類</p></div>

<p>そうした石蔵や石垣をよくよく観察してみると、その表面処理にも当時の石工たちの工夫が見てとれる。石蔵・石垣保存プロジェクトチームでは、石の表面仕上げを以下のように独自に6種類に分類・命名した。</p>
<p>さまざまな表面仕上げの方法が存在する背景には時代ごとの流行もあるだろうが、石工の技術力や技術の進化によるところも大きいと考えられる。</p>
<p>それでは、今もまちなかに残る実際の石蔵や石垣を訪ねてみよう。</p>
<h2>「花商小倉石蔵」と「島津邸石蔵」</h2>
<p>まずは、石蔵を見ていく。「石蔵・石垣マップ」に載っている4つの石蔵の一つでもある「花商小倉石蔵」を訪れた。</p>

<div id="attachment_12767" style="width: 740px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12767" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi13.jpg" alt="" width="740" height="417" class="wp-image-12767" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi13.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi13-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 740px) 100vw, 740px" /><p id="caption-attachment-12767" class="wp-caption-text">「花商小倉石蔵」。背後には日豊本線の高架が走る</p></div>

<p>八幡西交差点から西都城駅へと向かう細い道沿いにある。向かいにある総合花商小倉の所有する石蔵だ。</p>
<p>壁面には「バットレス（控え壁）」が配されており、石蔵本体の強度を高めているのはもちろん、レトロな雰囲気を醸し出している点が見どころだ。表面仕上げは「のみ切り」と「コブ出し」が採用され、端正な雰囲気を醸している。</p>

<div id="attachment_12768" style="width: 600px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12768" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi14.jpg" alt="" width="600" height="338" class="wp-image-12768" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi14.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi14-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /><p id="caption-attachment-12768" class="wp-caption-text">石蔵にふさわしい堅牢なつくり</p></div>

<p>お次は「島津邸石蔵」へ。都城島津邸にある築95年を超える石蔵で、都城市の有形文化財にも指定されている。</p>

<div id="attachment_12762" style="width: 740px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12762" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi11.jpg" alt="" width="740" height="417" class="wp-image-12762" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi11.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi11-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 740px) 100vw, 740px" /><p id="caption-attachment-12762" class="wp-caption-text">「都城島津邸」の石蔵。2025年8月、「日本茶専門店 日向時間 島津邸石蔵カフェ店」がオープンした</p></div>

<p>2022（令和4）年の台風などで外壁漆喰が剥がれ落ちる被害を受けていたが、無事に修繕を完了。現在はカフェとして活用されている。</p>
<p>かつては民具や農作物が保管されており、昭和48（1973）年の昭和天皇皇后両陛下のご宿泊の際には警察官の詰め所として活用されたという。都城島津邸にふさわしい堂々とした佇まいが見どころだ。</p>

<div id="attachment_12770" style="width: 600px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12770" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi15.jpg" alt="" width="600" height="338" class="wp-image-12770" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi15.jpg 1200w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi15-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /><p id="caption-attachment-12770" class="wp-caption-text">表面仕上げが美しく、石工の優れた技術力がうかがえる</p></div>

<h2>歴史を感じさせる石垣が立ち並ぶ</h2>
<p>つづいて、石垣を訪ねた。まずは、西町の岳下橋たもと付近へ。</p>
<p>2022（令和4）年に国の有形文化財（建造物）に登録された旧江夏岩吉邸をぐるりと囲むように石垣が築かれている。南側は2m近くある立派な石垣で、重厚感を醸す外観が歴史を感じさせてくれる。</p>

<div id="attachment_12801" style="width: 740px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12801" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi16-2.jpg" alt="" width="740" height="417" class="wp-image-12801" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi16-2.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi16-2-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 740px) 100vw, 740px" /><p id="caption-attachment-12801" class="wp-caption-text">「旧江夏岩吉邸」を囲む石垣</p></div>

<p>表面仕上げは規則的なのみ跡が付いた「先のみ」で、向きを合わせて積まれており、丁寧な仕事ぶりがうかがえる。ヤマエ食品工業の前身会社を創業した江夏岩吉氏の邸宅を囲むにふさわしい格式高い石垣だ。</p>

<div id="attachment_12773" style="width: 600px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12773" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi17.jpg" alt="" width="600" height="338" class="wp-image-12773" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi17.jpg 1200w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi17-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /><p id="caption-attachment-12773" class="wp-caption-text">高さと重厚感に圧倒される</p></div>

<p>次は、姫城町の藤元総合病院近くの交差点角へ。マンション前に、立派な武家門と共に石垣が残っている。信号待ちで停車した際、気になっていた方も多いのではないだろうか。</p>
<p>市役所、つまり都城領主館跡に近く、かつて「老中馬場」と呼ばれた重臣の邸宅が並ぶ通り沿いにあることから、この石垣内に立派なお屋敷があったのではないかと推測される。</p>

<div id="attachment_12774" style="width: 740px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12774" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi18.jpg" alt="" width="740" height="417" class="wp-image-12774" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi18.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi18-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 740px) 100vw, 740px" /><p id="caption-attachment-12774" class="wp-caption-text">「姫城町」の石垣。領主館の出入口「東口番所」跡でもある</p></div>

<p>8段もの切石が積み上げられた高さのある石垣で、笠石も積まれている。表面仕上げは主に「のみ切り」が採用されているが、一部「有孔」もあり、見応えがある。</p>
<p>筆者としては、背後にそびえる近代的なマンションとのコントラストがいちばんの見どころ。過去と現代とが見事に交錯し、不思議な調和を保っている風景に、ほかにはないユニークさを感じる。</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi19.jpg" alt="" width="600" height="338" class="aligncenter wp-image-12775" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi19.jpg 1200w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi19-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /></p>

<div id="attachment_12776" style="width: 600px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12776" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi20.jpg" alt="" width="600" height="338" class="wp-image-12776" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi20.jpg 1200w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi20-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /><p id="caption-attachment-12776" class="wp-caption-text">数百年を経てもなお堂々たる佇まい（上）。近づくと精緻な彫りが目を惹く。高い技術を持つ石工が手がけたのだろうか</p></div>

<p>次に、八幡町の丸田病院を囲むようにして築かれている石垣へ向かった。</p>

<div id="attachment_12777" style="width: 740px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12777" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi21.jpg" alt="" width="740" height="417" class="wp-image-12777" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi21.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi21-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 740px) 100vw, 740px" /><p id="caption-attachment-12777" class="wp-caption-text">「丸田病院」を囲む石垣。西都城駅ロータリーを出て南下したところに見えてくる</p></div>

<p>領主館の敷地内には乗馬の練習をするなどしていた「馬場」と呼ばれるエリアがあり、先述した「老中馬場」の他にも「桜馬場」「八幡馬場」「北口馬場」などがある。この石垣は「桜馬場」沿いに立っている。</p>
<p>表面仕上げは「のみ切り」で素朴な雰囲気を感じさせるが、整然と切石が積まれている様子からはどことなく品格が漂ってくるよう。高さはあまりなく、どっしりとした趣が感じられる。</p>

<div id="attachment_12778" style="width: 600px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12778" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi22.jpg" alt="" width="600" height="338" class="wp-image-12778" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi22.jpg 1200w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi22-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /><p id="caption-attachment-12778" class="wp-caption-text">今も現役で石垣の役目を果たしている</p></div>

<h2>史跡付近の通り沿いに並ぶ石垣</h2>
<p>ほかにもたくさんの石垣がまちなかには残されている。特に、領主館など史跡付近の通り沿いは複数の石垣が残っている場合が多い。</p>
<p>例えば、かつて領主館があった市役所の北東部に位置する「普請方（ふしんかた）小路」の両脇には、高さこそないが、立派な石垣が断続的に残っている。「普請方」とは土木・建築関係の工事を担当した部署のことで、江戸時代にはこの通りに普請方の役所が並んでいたという。</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi23.jpg" alt="" width="600" height="338" class="aligncenter wp-image-12780" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi23.jpg 1200w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi23-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /></p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi24.jpg" alt="" width="600" height="338" class="aligncenter wp-image-12781" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi24.jpg 1200w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi24-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /></p>

<div id="attachment_12782" style="width: 600px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12782" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi25.jpg" alt="" width="600" height="338" class="wp-image-12782" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi25.jpg 1200w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi25-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /><p id="caption-attachment-12782" class="wp-caption-text">「普請方（ふしんかた）小路」周辺に残る石垣。上は「カレー倶楽部ルゥ」前。中は「普請方小路」標柱付近。植物に覆われている箇所もある（下）</p></div>

<p>また、東上町通りを東へ入っていったところにある「志和池殿小路（しわちどんこうじ）」周辺にも石垣がいくつも残っている。</p>
<p>志和池殿とは都城領主であった北郷家の一族で、この近辺に邸を構えていたことからこのような名前で呼ぶようになった。武家門も残り、当時の雰囲気を今に伝える。</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi26.jpg" alt="" width="600" height="338" class="aligncenter wp-image-12783" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi26.jpg 1200w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi26-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /></p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi27.jpg" alt="" width="600" height="338" class="aligncenter wp-image-12784" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi27.jpg 1200w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi27-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /></p>

<div id="attachment_12785" style="width: 600px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12785" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi28.jpg" alt="" width="600" height="338" class="wp-image-12785" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi28.jpg 1200w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi28-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /><p id="caption-attachment-12785" class="wp-caption-text">「志和池殿小路（しわちどんこうじ）」周辺に残る石垣。上の石垣には「笠石」が乗り、格式高さが伺える。中はまちに溶け込んでおり、見過ごしてしまいそうになる石垣。ブロック塀と“融合”している石垣も見つけた（下）</p></div>

<h2>「価値を知ってもらうことが保存活動の第一歩」</h2>
<p>ここまで紹介した石蔵・石垣はほんの一部。「なぜこんなところに？」と思うような場所に残っていることもあり、その理由について想像を膨らませるのもまた楽しい。</p>

<div id="attachment_12793" style="width: 600px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12793" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi30.jpg" alt="" width="600" height="338" class="wp-image-12793" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi30.jpg 1200w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi30-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /><p id="caption-attachment-12793" class="wp-caption-text">「酒人肴 ひと麦」（上町）。古い石垣を活かした風情あるエントランス</p></div>

<p>しかし一方で、年々その姿が消えつつあるのも現状だ。池田さんの話では、この1年間でもいくつかの石垣がなくなってしまっているという。</p>
<p>「老朽化や相続の問題などを理由に解体されてしまう例が多くあります。特に石垣は、持ち主の方がその価値をご存知ない場合もあります。保存するのも大変ですし、そのコストは持ち主の方が負担しなければならないので、保存を無理強いすることもできません」</p>
<p>「私たちにできることは『石蔵・石垣マップ』などを通して歴史やストーリーを伝えていくこと。価値があるものだという認識を持ってもらえるようにすることが、保存への第一歩なのではないかと考えています。まずは知ってもらうことが大事。私たちも意識しなければその価値に気づかなかったのですから」</p>

<div id="attachment_12758" style="width: 740px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12758" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi08.jpg" alt="" width="740" height="417" class="wp-image-12758" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi08.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi08-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 740px) 100vw, 740px" /><p id="caption-attachment-12758" class="wp-caption-text">池田さんはさまざまなイベントなどを通じて石蔵・石垣の魅力を伝えている（都城商工会議所提供）</p></div>

<p>さまざまなイベントなどを通して、筆者のように市内に残る石蔵や石垣に興味を持つひとは確実に増えつつあるという手応えを感じているという池田さん。その取り組みは続く。</p>
<h2>発展するプロジェクト、まち歩きNFT“QR探し”も</h2>
<p>現在、「石蔵・石垣マップ」から発展させ、牟田町の天竜山攝護寺にかつてあったお堀を再生するプロジェクトに取り組んでいる。南九州大学の先生や学生らとともに、溶結凝灰岩を活用したものにしようと計画している。</p>
<p>2025年11月からは「みやこのじょう石蔵・石垣まち歩きNFT」という新しいイベントもスタートさせている。</p>
<p>「石蔵・石垣マップ」に掲載されている石蔵・石垣のどこかに設置されている二次元コード（QR）を見つけるまち歩きイベント。二次元コードを指定されたアプリで読み込み、条件達成によって特典の抽選を受けられる。</p>
<p>2026（令和8）年2月28日までの開催で、「まち歩きをもっと楽しく、特別な体験にしてほしい」という池田さんを始め、都城商工会議所まちづくり委員会の思いが込められている。「まずは、『石蔵・石垣マップ』を片手に街中を歩いてみてほしい。自然と都城の歴史が見えて、より街への愛着が湧いてくるはず」。</p>

<div id="attachment_12786" style="width: 740px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12786" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi29.jpg" alt="" width="740" height="417" class="wp-image-12786" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi29.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History03_Ishi29-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 740px) 100vw, 740px" /><p id="caption-attachment-12786" class="wp-caption-text">二次元コードを目印に街を歩こう</p></div>

<p>池田さんは「まちづくりに取り組む地域プロジェクトマネージャーという立場としては、ついでに街中でごはんを食べたり買い物をしたりしてもらえたらよりうれしいですね」と期待を込める。</p>
<p>また、「石蔵・石垣マップ」は、2026（令和8）年2月に新たなバージョンをリリース予定だという。新たなマップには、江戸時代末期の武家屋敷の分布も掲載される予定とのこと。石蔵・石垣巡りが、さらに楽しく興味深いものになるに違いない。</p>
<h2>“石”から見える新しいまちの顔</h2>
<p>かつての歴史を静かに伝え続ける石蔵や石垣。都城市の中心市街地は太平洋戦争で空襲の被害も受けており、それにより焼失したものも多いだろうと池田さんは指摘する。つまり、現存している石蔵や石垣は戦火を潜り抜けてなお残ったもの。改めてその貴重さを感じる。</p>
<p>こうした気づきや関心が積み重なることで、単なる「古い建造物」だった石蔵や石垣が、やがて「自分たちのまちの大切な一部」へと変わり、街への愛着がより深く、よりぬくもりのあるものになっていくのではないだろうか。</p>
<p>“石”という新たな側面から都城のまちを見直してみよう。きっと新しいまちの顔が見えてくる。</p>
<p>中心市街地だけでなく、その他の地域にも古い石蔵や石垣は存在する。ぜひいつも通っている道も注意深く観察してみてほしい。ただし、私有地にあるものも多いため、その際は勝手に立ち入るような行動は慎んでほしい。</p>
<p>そして、せっかく石蔵や石垣を訪ね歩くのなら、どんな表面仕上げの方法があるか知っておくと良い。ただ眺めるだけでなく、「なぜこの仕上げにしたのだろう」「どんな工具が使われたのだろうか」などと思いを馳せることができ、楽しみも増すだろう。石蔵や石垣に対する認識も単なる建造物から「ひとの営み」へと変化し、より理解や愛着が深まるはずだ。</p>The post <a href="https://think-miyakonojo.jp/article/12730/">まちに息づく石蔵・石垣を訪ねて <span> “石”に宿る記憶をたどる</span></a> first appeared on <a href="https://think-miyakonojo.jp">Think都城</a>.]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>“田の神さぁ”がもたらしたユニークな風習 「田の神様」300年の歴史(2)</title>
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		<dc:creator><![CDATA[三角園 泉]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 08 Dec 2025 03:00:33 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[まちにたたずむ歴史]]></category>
		<category><![CDATA[オットイタノカン]]></category>
		<category><![CDATA[シキ]]></category>
		<category><![CDATA[タノカンサア]]></category>
		<category><![CDATA[メシゲ]]></category>
		<category><![CDATA[田の神]]></category>
		<category><![CDATA[田の神さぁ]]></category>
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					<description><![CDATA[<ul>
<li>おおらかな「田の神さぁ」は、地域に独特な風習ももたらした。</li>
<li>しかし農業人口減少などで祭事の実施が難しくなった地域も多い。</li>
<li>風習や文化は薄れつつあるが、未来へ継ごうとする努力も続く。</li>
</ul>
The post <a href="https://think-miyakonojo.jp/article/12693/">“田の神さぁ”がもたらしたユニークな風習 <span>「田の神様」300年の歴史(2)</span></a> first appeared on <a href="https://think-miyakonojo.jp">Think都城</a>.]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<div class="su-spoiler su-spoiler-style-“fancy” su-spoiler-icon-plus su-spoiler-closed" data-scroll-offset="0" data-anchor-in-url="no"><div class="su-spoiler-title" tabindex="0" role="button"><span class="su-spoiler-icon"></span>テーマ［ まちにたたずむ歴史 ］の記事一覧</div><div class="su-spoiler-content su-u-clearfix su-u-trim"><ul class="lcp_catlist" id="lcp_instance_0"><li><a href="https://think-miyakonojo.jp/article/12570/" target="_blank">十人十色の魅力、“田の神さぁ”を訪ねて <span>「田の神様」300年の歴史(1)</span></a></li><li class="current"><a href="https://think-miyakonojo.jp/article/12693/" target="_blank">“田の神さぁ”がもたらしたユニークな風習 <span>「田の神様」300年の歴史(2)</span></a></li><li><a href="https://think-miyakonojo.jp/article/12730/" target="_blank">まちに息づく石蔵・石垣を訪ねて <span> “石”に宿る記憶をたどる</span></a></li><li><a href="https://think-miyakonojo.jp/article/12853/" target="_blank">あしもとに刻まれた文化財 <span>島津家隆盛の裏で懸命に生きた証</span></a></li><li><a href="https://think-miyakonojo.jp/article/12933/" target="_blank">教科書に載らない「暮らしに潜む史跡」 <span>廃線跡・橋りょう・用水路が物語る歴史</span></a></li></ul></div></div>
<h2>盗むことも許されていた風習</h2>

<div id="attachment_12720" style="width: 350px" class="wp-caption alignright"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12720" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History02_Tanokan07.jpg" alt="" width="350" height="466" class="wp-image-12720" /><p id="caption-attachment-12720" class="wp-caption-text">シキを被りメシゲを手に持つ「丸谷大年神社の田の神さぁ」</p></div>

<p>南九州で古くから祀られてきた五穀豊穣を願う田の神信仰の石像「田の神様」。田畑の脇や高台、集落の隅などに鎮座し、頭には大きな「シキ（蒸し物をするときに釜とセイロのあいだに挟む藁製の編み物）」を被っていたり、「メシゲ（しゃもじ）」やお碗を持っていたり、はたまた座っていたり踊っていたりと、さまざまな表情・姿を見せてくれる。</p>
<p>その魅力については<a href="https://think-miyakonojo.jp/article/12570/" target="_blank" rel="noopener">前回記事</a>でもお伝えした。今回も前回に倣い、地元で親しまれている呼び方「田の神さぁ（タノカンサア）」を踏襲したい。</p>

<div id="attachment_12721" style="width: 740px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12721" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History02_Tanokan08.jpg" alt="" width="740" height="417" class="wp-image-12721" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History02_Tanokan08.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History02_Tanokan08-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 740px) 100vw, 740px" /><p id="caption-attachment-12721" class="wp-caption-text">えびの市では田の神さぁが観光資源としても活用されている</p></div>

<p>田の神さぁは、鹿児島藩を中心に根づいた文化で、宮崎県の一部にも田の神像が分布している。都城市でも約180体が確認されており、個性豊かないでたちが筆者を含む多くの人々を今も魅了している。</p>
<a href="https://think-miyakonojo.jp/article/12570/" class="cardlink" target="_blank" rel="noopener noreferrer">
    <div class="cardlink_thumbnail">
        <img decoding="async" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_hero06-500x500.jpg">
    </div>
    <div class="cardlink_content">
        <span class="cardlink_timestamp">2025.11.26</span>
        <div class="cardlink_title">
            十人十色の魅力、“田の神さぁ”を訪ねて <span>「田の神様」300年の歴史(1)</span>
        </div>
        <div class="cardlink_excerpt"><span>南九州特有の田の神信仰「田の神様」。地元では「タノカンサァ」と親しまれる。宮崎県や鹿児島県を中心に3400体以上が確認され、都城市には約180体が残る。一つとして同じものはなく、それぞれ個性豊かなたたずまい。その魅力に迫った。...</span></div>
    </div>
    <div class="cardlink_footer"></div>
</a>

<p>前回は、さまざまな“みやこんじょの田の神さぁ”たちを紹介してきたが、今回は取り巻く文化の側面から魅力に迫っていきたい。田の神さぁにまつわる風習もまた、個性的というか、ユニークである。</p>
<p>田の神さぁは神官によって祭祀が行われるようなことはほとんどなく、あくまで農民が暮らしの中で祈りや感謝を捧げるための“庶民的”な神様だった。それどころか、不作の時には汚しても転がしても決して祟ることのない神様であり、ずいぶんと心が広い神様である。</p>
<p>さらには、盗むことも許されていたというから驚きだ。その風習は「オットイタノカン」と呼ばれている。</p>
<h2>「オットイタノカン」の置き手紙</h2>
<p>「オットイ」とは「盗む」という意味。つまり「オットイタノカン」とは「田の神を盗む」ということ。豊作が続く地域の田の神さぁを祀ると米がよく獲れるようになるため、不作に悩む地域の人々が豊作の地域の田の神さぁを盗んで自分たちの地域に祀っていたという。</p>
<p>田の神さぁは盗まれた先でも不平を言うことはなく、行った先々で田んぼを守ってくれるのだとか。おおらかな田の神さぁ。困ったときはお互い様という人々の関係性を現したような風習でもある。</p>

<div id="attachment_12707" style="width: 740px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12707" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History02_Tanokan01.jpg" alt="" width="740" height="417" class="wp-image-12707" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History02_Tanokan01.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History02_Tanokan01-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 740px) 100vw, 740px" /><p id="caption-attachment-12707" class="wp-caption-text">オットイタノカンに遭った「二原の田の神さぁ」（小林市）</p></div>

<p>さすがに最近では「オット」られるようなことはなくなったようだが、小林市においては1977（昭和52）年、「二原の田の神さぁ」がオットイタノカンに遭ったという記録が残されている。</p>
<blockquote>
<p>二原の田の神は、昭和52年5月18日夜から19日の朝にかけて、「おっとい田の神」にあい、突然消えて、地区住民をやきもきさせましたが、6月8日にもとの場所から300ｍほど離れた田んぼの畔に焼酎1本と置手紙と共に返還されました。</p>
<div class="ta_right">（「小林の田の神さぁ 二原のおっとい田の神」小林市教育委員会）</div>
</blockquote>
<p>その際の「置き手紙」は次のようなものだった。</p>
<blockquote>
<p>宮崎県農民連盟の緊急な要請により地区の皆さんにことわりもなく諸県地方の巡視かたがた漫遊に出ておりもした。誠に申し訳ない。実は七月に予定されている参議院議員の選挙の件、それと米・畜産物の価格安定の件、中でも米の値段をもっと引き上げてもろうように要請に行ってきもした。だいたい、わしの考えていたようなことで話がまとまったので戻ってきもした。おさわがせしてスマン。<br />
米作りにはげんでもらいたい。もうどこにも出張しないので、今までどおりつきあっていただきたい。<br />
お礼に焼酎一升貰ってきもした。どうかよろしく。</p>
<div class="ta_right">（同上）</div>
</blockquote>
<p>なんともユニークで人間味にあふれた文面に、思わず口元がゆるむ。</p>
<h2>「オットイタノカン」対策も</h2>
<p>ちなみに、盗んだ田の神像は3年以上置くと不作になるとされ、盗んだ村の者たちは3年経ったらお礼として米俵や餅、焼酎などを持ってにぎやかに楽器を鳴らしながら田の神像を返しに送っていき、戻される村では「サカムケ（酒迎）」として宴を開いたという。</p>
<p>しかし、このしきたりは徐々に守られなくなり、盗まれたまま返されないケースが増えたため、コンクリートで土台に固められる田の神像も増えていった。</p>

<div id="attachment_12709" style="width: 740px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12709" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History02_Tanokan02.jpg" alt="" width="740" height="417" class="wp-image-12709" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History02_Tanokan02.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History02_Tanokan02-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 740px) 100vw, 740px" /><p id="caption-attachment-12709" class="wp-caption-text">しっかりとコンクリートに埋め込まれている「南横市の田の神さぁ」</p></div>

<p>安永年間（1772〜1781）に建立されたといわれる「南横市の田の神さぁ」は下半身をコンクリートに埋められており、まさにオットイタノカンから守るためだったのではないかと考えられる。</p>
<p>ほかにも、オットイタノカンから守るため、山の中に隠したり、地域の者以外には場所を教えなかったりといったことも多かったようだ。青山幹雄著『宮崎の田の神像』には次のように残されている。</p>
<blockquote>
<p>仕事に出てしまって人かげのない村の中を、田の神より人を求めて訪ねあるき、ある農家で七十歳ぐらいの老人をみつけ、田の神はないかと話しかけました。<br />
<br />
「おいやっど、ないしなはっと」<br />
「好きで研究しているのですが、どっちいけばよかっでしょうかい」<br />
「すぐそこやっどんな。よそんしにゃ教えられんこちなっちょりますが」<br />
「それは困りますが、何とかなりませんか」<br />
「あたやぁ、教えてっちゃけんど、きまりじゃっでな」<br />
<br />
（中略）とうとう教えてもらえませんでした。</p>
</blockquote>
<p>身元を明かした上でも教えてもらうことが叶わなかったと青山氏は併せて記しており、田の神さぁが地域の人々に大切に守られてきた存在であることが伝わってくる。</p>
<h2>酒呑みの「田の神講」と風化</h2>
<p>ユニークという点では、酒を呑みたいがために受け継がれた風習もある。毎年、春の祈願と秋の収穫の際などに祭りを行う「田の神講」だ。</p>
<div class="iframe_wrap_fb"><iframe loading="lazy" width="500" height="333" style="border: none; overflow: hidden;" src="https://www.facebook.com/plugins/post.php?href=https%3A%2F%2Fwww.facebook.com%2F373news%2Fposts%2Fpfbid0wva2daT3TKcbfwpFfVbKgiU3vWFL3ZUTYY8sJoVatAMRWiTZvcpE8qnAMYwqsTYul&amp;show_text=false&amp;width=500" scrolling="no" frameborder="0" allowfullscreen="allowfullscreen" allow="autoplay; clipboard-write; encrypted-media; picture-in-picture; web-share"></iframe></div>
<p>もともとは、単なる祭祀としてだけでなく、薩摩藩による圧政に苦しんでいた農民たちの数少ないうっぷん晴らしの機会として機能していた。日頃楽しみが少ない農民たちが知恵を絞り、どうにか酒を呑む方法を考えた結果が、豊作を祈るための田の神講だった。</p>
<p>役人側においても、米は藩の財政を支える重要な品目。農民たちに自発的に田の神さぁを作らせ、田の神講を行わせることで、生産意欲をかき立てていたという。</p>
<p>田の神講と同じくして「回り田の神」という風習を行う地域もあった。</p>
<p>これは、田の神像が年ごとに家庭を回る風習で、当番の家庭では田の神像に化粧をし、大切に床の間に飾っていたという。平日に皆で集まり、酒を飲むことが禁止されていた時代、この日だけは酒を飲むことが許されたとも。また、持ち運びしやすいよう、小型サイズの田の神さぁも作られるようになった。</p>
<p>しかし、近年においては農業人口の減少などから祭事の開催は徐々に難しくなり、都城市でもその様子を見ることは難しくなっているようだ。</p>
<p>現代において田の神さぁ自体の存在感もずいぶんと薄れてしまっている。農業に携わる人々の減少はもちろん、農業の機械化や省力化の推進により地域総出で田植えや稲刈りをすることも減り、都市化も進んだ。</p>

<div id="attachment_12711" style="width: 350px" class="wp-caption alignright"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12711" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History02_Tanokan03.jpg" alt="" width="350" height="350" class="wp-image-12711" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History02_Tanokan03.jpg 700w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History02_Tanokan03-500x500.jpg 500w" sizes="auto, (max-width: 350px) 100vw, 350px" /><p id="caption-attachment-12711" class="wp-caption-text">下金田営農研修館に鎮座する「下金田の田の神さぁ」</p></div>

<p>加えて、田の神さぁの多くは屋根のない場所に置かれている。雨風による侵食や劣化が進んでいるものも多い。表情や持ち物が分かりにくくなっている田の神さぁも多く、過去の写真と比べると姿形が変わりつつあるものも存在する。</p>
<p>保存や管理は行政ではなく、田の神さぁが設置されている土地の所有者や公民館などに委ねられており、難しい面もあるのが現状だ。</p>
<p>水田や地域との結びつきを失ったとき、田の神さぁは何を見守るのだろうか。田の神さぁの文化が各地で消えつつあるのは、仕方のない面もあるのだろう。</p>
<p>とはいえ、田の神文化が途絶えたわけではない。</p>
<h2>田の神さぁの願いを未来へ</h2>
<p>宮崎県内有数の米どころであるえびの市の末永地区では、現在も毎年5月4日に「田の神祭り」が行われている。</p>
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<div style="padding: 16px;"><a href="https://www.instagram.com/p/DJBiKeZR-gc/?utm_source=ig_embed&amp;utm_campaign=loading" style="background: #FFFFFF; line-height: 0; padding: 0 0; text-align: center; text-decoration: none; width: 100%;" target="_blank" rel="noopener">
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<div style="background-color: #f4f4f4; border-radius: 4px; flex-grow: 0; height: 14px; margin-bottom: 6px; width: 100px;"></div>
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</div>
<div style="padding: 19% 0;"></div>
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<div style="color: #3897f0; font-family: Arial,sans-serif; font-size: 14px; font-style: normal; font-weight: 550; line-height: 18px;">この投稿をInstagramで見る</div>
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<p style="color: #c9c8cd; font-family: Arial,sans-serif; font-size: 14px; line-height: 17px; margin-bottom: 0; margin-top: 8px; overflow: hidden; padding: 8px 0 7px; text-align: center; text-overflow: ellipsis; white-space: nowrap;"><a href="https://www.instagram.com/p/DJBiKeZR-gc/?utm_source=ig_embed&amp;utm_campaign=loading" style="color: #c9c8cd; font-family: Arial,sans-serif; font-size: 14px; font-style: normal; font-weight: normal; line-height: 17px; text-decoration: none;" target="_blank" rel="noopener">えびの市観光協会(@ebinoshikankou)がシェアした投稿</a></p>
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</blockquote>
<p><script async src="//www.instagram.com/embed.js"></script></p>
<p>2025（令和7）年4月には、鹿児島県薩摩川内市で倒れた田の神を住民が起こすところから始まるユニークな祭り「田の神起こし」が17年ぶりに行われるなど、田の神文化を受け継ごうとする動きも出てきた。</p>
<p>歴史を体現する貴重な資料として保存していこうという動きもある。</p>
<p>都城市では直接的な保存活動は難しいものの、過去には現地調査を行い、田の神像の大きさや由来、銘の有無などを記録・リスト化し、その一部を都城市文化財データベースで公開するなどしている。</p>

<div id="attachment_12713" style="width: 600px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12713" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History02_Tanokan04.jpg" alt="" width="600" height="400" class="wp-image-12713" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History02_Tanokan04.jpg 1200w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History02_Tanokan04-768x512.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /><p id="caption-attachment-12713" class="wp-caption-text">都城歴史資料館の田の神さぁ</p></div>

<p>また、中庭に田の神さぁがいる都城歴史資料館では、田の神さぁについて紹介するパネルを展示したり、企画展で大きく紹介したりと、その存在を未来に繋ぐための努力が続けられている。</p>
<p>わずかではあるが、新たな田の神像の建立もある。その一つが、都城市の沖水川流域に1996（平成8）年、建立された「境園の田の神さぁ」。郡元の「ゲンジボタルの生息地」近くに鎮座し、現代の人々を見守っている。</p>

<div id="attachment_12714" style="width: 600px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12714" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History02_Tanokan05.jpg" alt="" width="600" height="400" class="wp-image-12714" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History02_Tanokan05.jpg 1200w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History02_Tanokan05-768x512.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /><p id="caption-attachment-12714" class="wp-caption-text">郡元の「ゲンジボタルの生息地」近くに鎮座する「境園の田の神さぁ」</p></div>

<p>古い田の神さぁも、新しい田の神さぁも、最後までその場で地域を見つめ、人々の生活に寄り添い続けてほしいと願う。確かに存在感は薄まり、文化は絶えつつあるが、米不足や価格高騰のニュースが話題になる昨今、田の神さぁが祈り続けてきた「豊かな実り」への願いは、決して過去のものではない。</p>
<p>田んぼの傍らで微笑む姿は、私たちに大切なことを思い出させてくれはしないだろうか。</p>

<div id="attachment_12715" style="width: 740px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12715" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History02_Tanokan06.jpg" alt="" width="740" height="417" class="wp-image-12715" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History02_Tanokan06.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/12/History02_Tanokan06-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 740px) 100vw, 740px" /><p id="caption-attachment-12715" class="wp-caption-text">「西高木の田の神さぁ」は手作り感あふれる彫りがたまらないかわいさ</p></div>

<p>もしかしたら、あなたがこれまで何気なく通っていた道の傍らに田の神さぁは静かに佇んでいるかもしれない。田畑の広がる一帯や墓地の一角などに鎮座していることもある。</p>
<p>いつもより少しだけ歩みを緩めて、田の神さぁを探してみるのもきっと楽しいはずだ。見た目のユニークさももちろん魅力だが、その刻んできた歴史にも思いを馳せたい。</p>
<p>また、前回記事の繰り返しになって恐縮だが、田の神さぁは狭い農道脇などに設置されていることが多いため、見学する際は農家の方を優先し、交通ルールを守ったうえで訪ねてほしい。今でも地域の大切な神様であることには変わりはない。敬意を払って見学してもらいたい。</p>
<p>田の神さぁは、田畑だけでなく、いまを生きる私たちの心もそっと耕してくれるはずだ。</p>
<p><span style="font-family: 'Hiragino Sans', 'ヒラギノ角ゴ ProN', 'Hiragino Kaku Gothic ProN', 游ゴシック, YuGothic, メイリオ, Meiryo, sans-serif; font-size: 16px;">参考文献：</span><br />
<span style="font-family: 'Hiragino Sans', 'ヒラギノ角ゴ ProN', 'Hiragino Kaku Gothic ProN', 游ゴシック, YuGothic, メイリオ, Meiryo, sans-serif; font-size: 16px;">青山幹雄『宮崎の田の神像』</span><br />
<span style="font-family: 'Hiragino Sans', 'ヒラギノ角ゴ ProN', 'Hiragino Kaku Gothic ProN', 游ゴシック, YuGothic, メイリオ, Meiryo, sans-serif; font-size: 16px;">八木幸夫『田の神のすべてが分かる本 田の神サァガイドブック』</span><br />
<span style="font-family: 'Hiragino Sans', 'ヒラギノ角ゴ ProN', 'Hiragino Kaku Gothic ProN', 游ゴシック, YuGothic, メイリオ, Meiryo, sans-serif; font-size: 16px;">八木幸夫『田の神石像、誕生のルーツを探る 仏像形、神像系、その他の分類と作製年代を考察する』</span><br />
<span style="font-family: 'Hiragino Sans', 'ヒラギノ角ゴ ProN', 'Hiragino Kaku Gothic ProN', 游ゴシック, YuGothic, メイリオ, Meiryo, sans-serif; font-size: 16px;">『都城市史 通史編 中世近世』</span><br />
<span style="font-family: 'Hiragino Sans', 'ヒラギノ角ゴ ProN', 'Hiragino Kaku Gothic ProN', 游ゴシック, YuGothic, メイリオ, Meiryo, sans-serif; font-size: 16px;">『都城市史 別編 民俗文化財』</span><br />
<span style="font-family: 'Hiragino Sans', 'ヒラギノ角ゴ ProN', 'Hiragino Kaku Gothic ProN', 游ゴシック, YuGothic, メイリオ, Meiryo, sans-serif; font-size: 16px;">小林市教育委員会『小林市の田の神さあ』</span><br />
<span style="font-family: 'Hiragino Sans', 'ヒラギノ角ゴ ProN', 'Hiragino Kaku Gothic ProN', 游ゴシック, YuGothic, メイリオ, Meiryo, sans-serif; font-size: 16px;">えびの市歴史民俗資料館『田の神さぁ』</span><br />
<span style="font-family: 'Hiragino Sans', 'ヒラギノ角ゴ ProN', 'Hiragino Kaku Gothic ProN', 游ゴシック, YuGothic, メイリオ, Meiryo, sans-serif; font-size: 16px;">宮崎県季刊誌Jaja VOL.13『特集：田の神さあをめぐる』</span></p>
<p><span style="font-family: 'Hiragino Sans', 'ヒラギノ角ゴ ProN', 'Hiragino Kaku Gothic ProN', 游ゴシック, YuGothic, メイリオ, Meiryo, sans-serif; font-size: 16px;">取材協力：</span><br />
<span style="font-family: 'Hiragino Sans', 'ヒラギノ角ゴ ProN', 'Hiragino Kaku Gothic ProN', 游ゴシック, YuGothic, メイリオ, Meiryo, sans-serif; font-size: 16px;">都城市文化財課</span></p>The post <a href="https://think-miyakonojo.jp/article/12693/">“田の神さぁ”がもたらしたユニークな風習 <span>「田の神様」300年の歴史(2)</span></a> first appeared on <a href="https://think-miyakonojo.jp">Think都城</a>.]]></content:encoded>
					
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		<item>
		<title>十人十色の魅力、“田の神さぁ”を訪ねて 「田の神様」300年の歴史(1)</title>
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		<dc:creator><![CDATA[三角園 泉]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 26 Nov 2025 05:00:49 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[まちにたたずむ歴史]]></category>
		<category><![CDATA[タノカンサア]]></category>
		<category><![CDATA[乙房神社]]></category>
		<category><![CDATA[廃仏毀釈]]></category>
		<category><![CDATA[溶結凝灰岩]]></category>
		<category><![CDATA[田の神さぁ]]></category>
		<category><![CDATA[田の神様]]></category>
		<category><![CDATA[霧島連山]]></category>
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					<description><![CDATA[<ul>
<li>南九州特有の田の神信仰「田の神様」。地元では「タノカンサァ」と親しまれる。</li>
<li>宮崎県や鹿児島県を中心に3400体以上が確認され、都城市には約180体が残る。</li>
<li>一つとして同じものはなく、それぞれ個性豊かなたたずまい。その魅力に迫った。</li>
</ul>
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										<content:encoded><![CDATA[<h2>乙房神社境内の隅にたたずむ石像</h2>
<p>都城志布志道路の乙房ICに向かう県道45号線を外れ、脇道を少し登っていった先にある乙房神社。高台にあって見晴らしがよく、眼下には乙房小学校、その先には乙房の街並み が広がり、遠くに霧島連山がそびえる。</p>
<p>こぢんまりとした境内は、厳かな神域というより、地域の日常に溶け込んだ素朴な神社という雰囲気。この境内の隅に静かにたたずむ「石像」が今回の主役のひとりである。</p>

<div id="attachment_12604" style="width: 740px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12604" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan01-2.jpg" alt="" width="740" height="417" class="wp-image-12604" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan01-2.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan01-2-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 740px) 100vw, 740px" /><p id="caption-attachment-12604" class="wp-caption-text">霧島山を背に佇む乙房神社の石像。彫りの美しさも魅力</p></div>

<p>どこかはにかんだような穏やかな笑顔に大きな耳、丸みのあるシルエット。右手にはメシゲ（しゃもじ）、左手にはお碗を持ち、頭には大きな「シキ（蒸し物をするときに釜とセイロのあいだに挟む藁製の編み物）」を被った姿がユーモラス！ 見ているだけで思わずこちらも笑顔になり、今にも話しかけてくれそうな姿に、心がほどけるような感覚をおぼえる。</p>
<p>背中には「文政9（1826）年」という記銘。およそ200年もの間この地を見守ってきたのだと思うとその途方もない時間の長さに気が遠くなると同時に、当時の“都城人”の息づかいや祈りの深さを感じられるような気もする。</p>
<p>この石像は現代に残る「田の神様」の一つ。乙房神社に田の神様は2体鎮座するが、本殿向かって左手にたたずむほうが筆者のお気に入りだ。</p>

<div id="attachment_12687" style="width: 350px" class="wp-caption alignright"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12687" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/af3fc9a6a3a13c28220cd9e6347c7f5e.jpg" alt="" width="350" height="405" class="wp-image-12687" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/af3fc9a6a3a13c28220cd9e6347c7f5e.jpg 996w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/af3fc9a6a3a13c28220cd9e6347c7f5e-768x888.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 350px) 100vw, 350px" /><p id="caption-attachment-12687" class="wp-caption-text">メディアなどで紹介されることが多い、えびの市末永の田の神様<span>（提供：宮崎県観光協会）</span></p></div>

<p>都城市に住む筆者が田の神様に興味を持つようになったのは数年前。存在はもちろん知っていたが、県内では田の神様を観光資源として活用しているえびの市に主に分布しているものだとばかり思っていた。</p>
<p>しかし、ひょんなことから、じつは都城市にも多く残っており、かつ自分の生活圏内にも決して少なくない数が存在していることを知り、がぜん好奇心を掻き立てられた。</p>
<p>市の文化財課によると、現在市内で確認されている田の神さぁは約180体。多くは農村部の田んぼや畑の片隅にたたずんでおり、ちょっと足を伸ばせばいろんな田の神さぁと出会うことができる。</p>
<p>そもそも田の神さぁとは一体なんなのか。魅力はどこにあるのか。</p>
<h2>田の神さぁの起源と背景</h2>
<p>田の神様とは、南九州で古くから祀られてきた五穀豊穣を願う田の神信仰の守護神。その多くが分布する鹿児島県や宮崎県の一部では、「田の神さぁ（タノカンサア）」と呼ばれ親しまれてきた。民俗資料や石像銘文、観光案内などでも「田の神さぁ」と記されることが多く、本稿でも以降、田の神さぁという表記で統一する。</p>
<p>都城市の歴史や文化を記録した「都城市史」に、次のような記述がある。</p>
<blockquote>
<p>田の神信仰は全国的にみられるが、田の神石像は主に鹿児島藩内に限ってみられる鹿児島藩独特の文化である。この田の神石像は、地元では現在でも「タノカンサア（田の神様）」と呼ばれ、人びとに親しまれている。<br />
（中略）都城の村々を歩いていると、田んぼの見える高台や田のかたわら、あるいは集落の脇に、高さ五〇cmから一mほどの丸彫り・浮き彫りの像をよく見かける。それはふつう屋根もなく、据えてあるという露座のままで立っていたり、座っていたり、あるいは踊っていたり、いろいろな形をしている。タノカンサアである。<br />
（「都城市史 通史編中世近世 第2編近世編　第3章享保期以降の農政と藩政　第6節都城領に暮らす人びとの生活　２田の神信仰と農民文化」）</p>
</blockquote>
<p>「田の神信仰」そのものは珍しいものではない。なにかを農耕神として祀る習俗は全国各地にある。しかし、自然石や巨木などを「依代（よりしろ＝神霊が寄りつくものや場所）」とすることが多い。石像を田の神として建立する文化は独特と言える。</p>
<p>その文化は、「都城市史」にもあるように鹿児島藩を中心に根づいた。現在確認されている田の神石像は、3400体以上。ほとんどが鹿児島県（島嶼部を除く）と宮崎県の一部に分布し、数は少ないが隣接地域でも確認されている（宮崎市にも存在する）。</p>

<div id="attachment_12603" style="width: 350px" class="wp-caption alignright"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12603" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan02.jpg" alt="" width="350" height="350" class="wp-image-12603" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan02.jpg 700w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan02-500x500.jpg 500w" sizes="auto, (max-width: 350px) 100vw, 350px" /><p id="caption-attachment-12603" class="wp-caption-text">鮮やかな彩色の跡が残る「新田場の田の神さぁ」（小林市）</p></div>

<p>鹿児島県における最古の田の神さぁは、鹿児島県薩摩郡さつま町の「紫尾の田の神さぁ」と言われ、1705（宝永2）年の建立。宮崎県では、1720（享保5）年に建立された小林市の「新田場の田の神さぁ」が最も古いとされている。</p>
<p>都城市最古の田の神さぁは1724（享保9）年に作られた高崎町の「谷川田之神」。いずれも18世紀初頭のことであり、そこからじつに300年以上にわたって独特の信仰として受け継がれてきた。</p>
<p>18世紀から普及した背景には、旧薩摩藩による急速な新田開発と、それに伴う農民の生活事情がある。当時、農民は厳しく年貢を取り立てられており、安定した収穫が得られるよう五穀豊穣を願って田の神さぁの像が作成されたのではないか と考えられている。</p>
<p>ユーモラスな顔、仕草を表現しているものが多いのは、苦しい生活の中で少しでも楽しさや笑いを見出したかったからなのかもしれないと筆者は考える。</p>
<p>南九州地域には、約34万年前に噴出した加久藤火砕流による溶結凝灰岩が豊富に存在する。石材として加工しやすかったこと、そして優秀な石工が多かったことも背景として挙げられる。</p>
<p>説明はこの辺にして、ここからは「魅力」を伝えたい。</p>
<h2>「神像系」「仏像系」「農民型その他」などに大別</h2>
<p>田の神さぁの魅力は、なんといってもその個性豊かな「いでたち」。研究者らによる分類の仕方はさまざまだが、ここでは八木幸夫著『田の神石像、誕生のルーツを探る 仏像系、神像系、その他の分類と作製年代を考察する』を参考に、「神像系」「仏像系」「農民型その他」をピックアップして紹介したい。</p>
<div class="su-box su-box-style-soft box-town" id="" style="border-color:#904800;border-radius:2px;max-width:none"><div class="su-box-title" style="background-color:#c37b00;color:#FFFFFF;border-top-left-radius:0px;border-top-right-radius:0px">「神像系」の田の神さぁ</div><div class="su-box-content su-u-clearfix su-u-trim" style="border-bottom-left-radius:0px;border-bottom-right-radius:0px">
<p>新燃岳の大噴火からの復興のシンボルとして作製された田の神さぁ。昔の貴族が着用した礼装の衣冠束帯姿の「神像型」や、神職が神舞（カンメ）を舞っている姿の「神舞神職型」、「神職型」、「田の神舞神職型」などに分類される。</p>

<div id="attachment_12606" style="width: 350px" class="wp-caption alignright"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12606" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan03.jpg" alt="" width="350" height="350" class="wp-image-12606" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan03.jpg 700w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan03-500x500.jpg 500w" sizes="auto, (max-width: 350px) 100vw, 350px" /><p id="caption-attachment-12606" class="wp-caption-text">「谷川の田の神さぁ」（高崎町）は市指定有形文化</p></div>

<p>神像系「神像型」は宮崎県が発祥とされ、特に小林市で多く確認されている。</p>
<p>先述した、宮崎県で最古の田の神さぁである小林市の「新田場の田の神さぁ」もまさに神像型だ。</p>
<p>先に述べた都城市で最古の田の神さぁ「谷川田之神（谷川の田の神さぁ）」も「神像型」であり、高崎町にある。</p>

<div id="attachment_12679" style="width: 350px" class="wp-caption alignleft"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12679" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan04-2.jpg" alt="" width="350" height="350" class="wp-image-12679" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan04-2.jpg 800w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan04-2-768x768.jpg 768w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan04-2-500x500.jpg 500w" sizes="auto, (max-width: 350px) 100vw, 350px" /><p id="caption-attachment-12679" class="wp-caption-text">大きなトーチカの上に鎮座している「母智丘の田の神さぁ」（都城市横市町）</p></div>

<p>母智丘の桜並木を少し横道に逸れたところに祀られている「母智丘の田の神さぁ」は「田の神舞神職型」だ。</p>
<p>袖の大きな上衣と袴姿で、静かに舞を舞っているように見える。</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan05.jpg" alt="" width="350" height="350" class="alignright wp-image-12637" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan05.jpg 800w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan05-768x768.jpg 768w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan05-500x500.jpg 500w" sizes="auto, (max-width: 350px) 100vw, 350px" />また、田の神さぁは背後から見ると男性器をかたどっているものも多く、「母智丘の田の神さぁ」もその一つ。</p>
<p>民間信仰において男性器が祀られることはめずらしくなく、田の神像においても多産や豊穣などを祈願したものと言える。</div></div>
<div class="su-box su-box-style-soft box-town" id="" style="border-color:#904800;border-radius:2px;max-width:none"><div class="su-box-title" style="background-color:#c37b00;color:#FFFFFF;border-top-left-radius:0px;border-top-right-radius:0px">「仏像系」の田の神さぁ</div><div class="su-box-content su-u-clearfix su-u-trim" style="border-bottom-left-radius:0px;border-bottom-right-radius:0px">
<p>発祥は薩摩地方といわれ、宮崎県よりも鹿児島県に多い田の神さぁ。霊山の紫尾山を中心とした山岳仏教を背景として作製された。</p>

<div id="attachment_12651" style="width: 350px" class="wp-caption alignright"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12651" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan06.jpg" alt="" width="350" height="350" class="wp-image-12651" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan06.jpg 700w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan06-500x500.jpg 500w" sizes="auto, (max-width: 350px) 100vw, 350px" /><p id="caption-attachment-12651" class="wp-caption-text">鮮やかなベンガラの朱が目を惹く「仲間の田の神さぁ」（小林市）</p></div>

<p>仏像系は、さらに「仏像型・地蔵型」や「僧型」「旅僧型」などに分類され、小林市の「仲間の田の神さぁ」は旅僧型の一種である「僧衣立像型」として知られている。</p>
<p>唐獅子彫刻の台座の上に法衣をまとって立ち、蓮の葉をかたどった冠をかぶっている非常に珍しいタイプだ。</div></div>
<div class="su-box su-box-style-soft box-town" id="" style="border-color:#904800;border-radius:2px;max-width:none"><div class="su-box-title" style="background-color:#c37b00;color:#FFFFFF;border-top-left-radius:0px;border-top-right-radius:0px">「農民型その他」の田の神さぁ</div><div class="su-box-content su-u-clearfix su-u-trim" style="border-bottom-left-radius:0px;border-bottom-right-radius:0px">
<p><strong></strong>「神像系」にも「仏像系」にも分類されない田の神さぁ。シキをかぶり、碗やメシゲなどを持ち、長袖上衣の襦袢に袴や股引きなどを着用した「農民型」は、宮崎・鹿児島の広い地域で見られる。</p>

<div id="attachment_12652" style="width: 350px" class="wp-caption alignright"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12652" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan07.jpg" alt="" width="350" height="350" class="wp-image-12652" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan07.jpg 700w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan07-500x500.jpg 500w" sizes="auto, (max-width: 350px) 100vw, 350px" /><p id="caption-attachment-12652" class="wp-caption-text">「高岡型農民型」の「糸川の田の神さぁ」（宮崎市）</p></div>

<p>なかでも、大きな笠状のシキを被ってメシゲと碗を持ち、着物に袴姿のいでたちの田の神さぁを「都城型農民型」と呼ぶ。冒頭で紹介した「乙房の田の神さぁ」もまさに「都城型農民型」である。どことなく朗らかな雰囲気が感じられるのも特徴だ。</p>
<p>また、大きなシキを頭の後ろ側にずらして被り、着物と袴を身に着け、中腰で少し前屈みになった田の神さぁは「高岡型農民型」である。</p>
<p>その他にも「女性像型」や「夫婦像型」、「自然石・自然石文字彫型」などユニークな型の田の神さぁが「農民型その他」に分類される。</p>
</div></div>
<p>以上、3つの分類、それぞれの特徴を紹介した。ただし、研究者によって名称や分類方法は異なる部分も多い。</p>
<p>たとえ同じ型であっても、それぞれ個性があふれており、一見で同じ型だと判断するのは困難なほど。収穫祭などでおしろいや墨、ベンガラと呼ばれる赤い顔料で化粧をされることもあり、同じ田の神さぁでも変化する。</p>
<p>それでは、具体的にどんな田の神さぁがいるのか、ユニークな“みやこんじょの田の神さぁたち”に会いに行ってみよう。</p>
<h2>「石山萩原」と「大牟田牟礼水流」の田の神さぁ</h2>

<div id="attachment_12684" style="width: 740px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12684" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan08-3.jpg" alt="" width="740" height="416" class="wp-image-12684" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan08-3.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan08-3-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 740px) 100vw, 740px" /><p id="caption-attachment-12684" class="wp-caption-text">「石山萩原の田の神さぁ」＜1847（弘化4）年頃・都城型農民型＞</p></div>

<p>まずは、都城型農民型に分類される「石山萩原の田の神さぁ」を訪れた。</p>
<p>高城町石山萩原の水田脇に鎮座し、視線は霧島山の方角を向いている。着物に袴、大きなシキをかぶってメシゲとお碗を持った姿は、都城型農民型そのもの。膝から下がなく、台座に固定されている。</p>
<p>顔とメシゲ、お腕は白色に、衣服はベンガラのように赤い色でペンキを用いて彩色されており、田園でひときわ目を惹く。</p>

<div id="attachment_12681" style="width: 600px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12681" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan09-1.jpg" alt="" width="600" height="338" class="wp-image-12681" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan09-1.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan09-1-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /><p id="caption-attachment-12681" class="wp-caption-text">視線の先には霧島山と大淀川</p></div>

<p>じつはこの田の神さぁ、テレビアニメ「サザエさん」に出演した経験を持つ。2015（平成27）年10月から12月までのオープニングで都城市の観光地などが紹介され、その中でアニメ映像として描かれ、見事サザエさんとの共演を果たした。素朴でユニークなたたずまいは、きっとサザエさん一家をも魅了したに違いない。</p>
<p>お次は、目の前に稲穂の海が広がる「大牟田牟礼水流の田の神さぁ」。神像系の「神像型座像」に属する。</p>

<div id="attachment_12665" style="width: 740px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12665" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan10.jpg" alt="" width="740" height="417" class="wp-image-12665" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan10.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan10-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 740px) 100vw, 740px" /><p id="caption-attachment-12665" class="wp-caption-text">田畑を見下ろす「大牟田牟礼水流の田の神さぁ」＜1758（宝暦8）年・神像型座像＞</p></div>

<p>高崎町の大牟田牟礼水流の道路脇の高台から田畑を見下ろすように鎮座。烏帽子を被り、狩衣をまとった衣冠束帯の田の神さぁ。両手は輪組みされ、祭りの際などにシャクを差し込めるように中央には孔が開けてある。</p>

<div id="attachment_12666" style="width: 600px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12666" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan11.jpg" alt="" width="600" height="338" class="wp-image-12666" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan11.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan11-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /><p id="caption-attachment-12666" class="wp-caption-text">キリッとした眉毛が印象深い</p></div>

<p>ペンキで赤と白に彩色された華やかな姿で、凛々しい表情が頼もしい。恰幅の良い、非常に角ばった体形が堂々とした雰囲気を醸している。</p>
<p>墓地の一角にあるためか、墓参りに来た人たちによると思われるジュースやアルコール類がいつもお供えしてある。周辺にゴミなどが落ちていることもなく、今も地域の方々から大事にされていることが見てとれる。</p>
<h2>「縄瀬横谷」と「上東」の田の神さぁ</h2>
<p>高崎町の縄瀬保育園西側で、道路に背を向けて座っているのは「縄瀬横谷の田の神さぁ」。頭部がつけ替えられた珍しい一体で、こちらも神像系の「神像型座像」だ。</p>

<div id="attachment_12668" style="width: 740px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12668" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan12.jpg" alt="" width="740" height="417" class="wp-image-12668" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan12.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan12-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 740px) 100vw, 740px" /><p id="caption-attachment-12668" class="wp-caption-text">頭部を改作された「縄瀬横谷の田の神さぁ」＜1809（文化6）年・神像型座像＞</p></div>

<p>狩衣をまとい、両手は輪組みし、孔が作られている。体部分にはうっすらと赤い色が残っているようにも見える。かつてベンガラで彩色されていた名残だろうか。</p>
<p>特徴的なのが頭の部分。改作され、あとにつけ替えられたとみられる。ずいぶんと釣り上がった眉にへの字に曲がった口が、ユーモラスさが持ち味の田の神さぁらしからぬ不穏さを醸し出している。</p>

<div id="attachment_12669" style="width: 600px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12669" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan13.jpg" alt="" width="600" height="337" class="wp-image-12669" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan13.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan13-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /><p id="caption-attachment-12669" class="wp-caption-text">首元にはつけ替えた際の跡が残る</p></div>

<p>田の神像の中には、明治時代初期の「廃仏毀釈」の影響で、頭を落とされて“打首”となったりバラバラに壊されたりと憂き目にあったものも少なくないという。この縄瀬横谷の田の神さぁが廃仏毀釈による影響を受けたかどうかは不明だが、都城市内にも頭部を欠損するなどした田の神さぁは少なくない。</p>
<p>まちなかでも田の神さぁと出会うことができる。上東児童公園内の片隅にたたずんでいるのが「上東の田の神さぁ」だ。</p>

<div id="attachment_12674" style="width: 740px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12674" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan14.jpg" alt="" width="740" height="417" class="wp-image-12674" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan14.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan14-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 740px) 100vw, 740px" /><p id="caption-attachment-12674" class="wp-caption-text">大黒様と融合「上東の田の神さぁ」＜昭和7（1932）年？・大黒天型＞</p></div>

<p>頭巾を被った頭にふくよかな福耳、ほころんだ笑顔……。パッと見は七福神の一柱である大黒様だが、その手にメシゲを持ち、肩には稲穂をかけている。</p>
<p>建立は1932（昭和7）年と推測され、かなり新しいが、大黒様と田の神さぁが融合した仏像系の「大黒天型」に分類されるれっきとした田の神さぁだ。</p>

<div id="attachment_12675" style="width: 600px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12675" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan15.jpg" alt="" width="600" height="338" class="wp-image-12675" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan15.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan15-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /><p id="caption-attachment-12675" class="wp-caption-text">豪快な笑顔はまさに大黒様。背中には豊かな稲穂が垂れる</p></div>

<p>「大黒天型」はあまり数は多くないものの、小林市や国富町、鹿児島県伊佐市や薩摩川内市などに存在し、それぞれに個性豊かな表情を見せてくれる。</p>
<p>最後に紹介しておきたいのは、貴重な石仏群が遺る梅北町・西生寺霊園跡の「西生寺の田の神さぁ」だ。</p>

<div id="attachment_12676" style="width: 740px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12676" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan16.jpg" alt="" width="740" height="417" class="wp-image-12676" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan16.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan16-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 740px) 100vw, 740px" /><p id="caption-attachment-12676" class="wp-caption-text">田の神舞を踊る「西生寺の田の神さぁ」＜年代不明・田の神舞神職型＞</p></div>

<p>廃仏毀釈によって廃寺となった西生寺跡から北北西に約500m離れた場所に鎮座。「田の神舞」を踊る神職のいでたちを表現した神像系「田の神舞神職型」に分類される。</p>
<p>シキを被った袴姿で、中腰のまま袖をひるがえらせ右足を力強く前に出している姿は、今にも動き出しそうな雰囲気を醸し出している。ずいぶんと風化しているが、石像としても優れた作品だと言えるのではないだろうか。</p>

<div id="attachment_12677" style="width: 600px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-12677" src="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan17.jpg" alt="" width="600" height="338" class="wp-image-12677" srcset="https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan17.jpg 1480w, https://think-miyakonojo.jp/images/2025/11/History01_Tanokan17-768x432.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /><p id="caption-attachment-12677" class="wp-caption-text">ずいぶんと風化が進み、表情は読み取りにくい</p></div>

<p>ここまで、ずいぶんと多種多様な田の神さぁがそこかしこに存在することがわかっていただけただろう。一体一体が異なる個性や物語を持ち、ユーモラスな姿の田の神さぁは、見れば見るほどに愛らしく、魅力にあふれている。ぜひ、あなたもお気に入りの田の神さぁを探しに出かけてみてほしい。</p>
<p>ちなみに、田の神さぁは狭い農道脇などに鎮座していることが多いため、車で訪れる際には農家の方を優先するなど交通ルールには十分に気をつけてほしい。また、地域にとって大切な神様であるため、敬意を払って見学してもらいたい。こんなところにこんな田の神さぁがいたのか！と各地をめぐるだけでも楽しいはずだ。</p>
<p>田の神さぁにまつわるエピソードや風習もまたおもしろい。次回は、風習や文化について深掘りしていく。</p>
<p><span style="font-size: 16px; font-family: 'Hiragino Sans', 'ヒラギノ角ゴ ProN', 'Hiragino Kaku Gothic ProN', 游ゴシック, YuGothic, メイリオ, Meiryo, sans-serif;">参考文献：</span><br />
<span style="font-size: 16px; font-family: 'Hiragino Sans', 'ヒラギノ角ゴ ProN', 'Hiragino Kaku Gothic ProN', 游ゴシック, YuGothic, メイリオ, Meiryo, sans-serif;">青山幹雄『宮崎の田の神像』</span><br />
<span style="font-size: 16px; font-family: 'Hiragino Sans', 'ヒラギノ角ゴ ProN', 'Hiragino Kaku Gothic ProN', 游ゴシック, YuGothic, メイリオ, Meiryo, sans-serif;">八木幸夫『田の神のすべてが分かる本 田の神サァガイドブック』</span><br />
<span style="font-size: 16px; font-family: 'Hiragino Sans', 'ヒラギノ角ゴ ProN', 'Hiragino Kaku Gothic ProN', 游ゴシック, YuGothic, メイリオ, Meiryo, sans-serif;">八木幸夫『田の神石像、誕生のルーツを探る 仏像形、神像系、その他の分類と作製年代を考察する』</span><br />
<span style="font-size: 16px; font-family: 'Hiragino Sans', 'ヒラギノ角ゴ ProN', 'Hiragino Kaku Gothic ProN', 游ゴシック, YuGothic, メイリオ, Meiryo, sans-serif;">『都城市史 通史編 中世近世』</span><br />
<span style="font-size: 16px; font-family: 'Hiragino Sans', 'ヒラギノ角ゴ ProN', 'Hiragino Kaku Gothic ProN', 游ゴシック, YuGothic, メイリオ, Meiryo, sans-serif;">『都城市史 別編 民俗文化財』</span><br />
<span style="font-size: 16px; font-family: 'Hiragino Sans', 'ヒラギノ角ゴ ProN', 'Hiragino Kaku Gothic ProN', 游ゴシック, YuGothic, メイリオ, Meiryo, sans-serif;">小林市教育委員会『小林市の田の神さあ』</span><br />
<span style="font-size: 16px; font-family: 'Hiragino Sans', 'ヒラギノ角ゴ ProN', 'Hiragino Kaku Gothic ProN', 游ゴシック, YuGothic, メイリオ, Meiryo, sans-serif;">えびの市歴史民俗資料館『田の神さぁ』</span><br />
<span style="font-size: 16px; font-family: 'Hiragino Sans', 'ヒラギノ角ゴ ProN', 'Hiragino Kaku Gothic ProN', 游ゴシック, YuGothic, メイリオ, Meiryo, sans-serif;">宮崎県季刊誌Jaja VOL.13『特集：田の神さあをめぐる』</span></p>
<p><span style="font-size: 16px; font-family: 'Hiragino Sans', 'ヒラギノ角ゴ ProN', 'Hiragino Kaku Gothic ProN', 游ゴシック, YuGothic, メイリオ, Meiryo, sans-serif;">取材協力：</span><br />
<span style="font-size: 16px; font-family: 'Hiragino Sans', 'ヒラギノ角ゴ ProN', 'Hiragino Kaku Gothic ProN', 游ゴシック, YuGothic, メイリオ, Meiryo, sans-serif;">都城市文化財課</span></p>The post <a href="https://think-miyakonojo.jp/article/12570/">十人十色の魅力、“田の神さぁ”を訪ねて <span>「田の神様」300年の歴史(1)</span></a> first appeared on <a href="https://think-miyakonojo.jp">Think都城</a>.]]></content:encoded>
					
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